日本列島で土器を用いた暮らしが始まるのは、約1万6,500年前とする見解があります。この頃の土器は、表面に文様が付けられていない土器(無文土器)でした。その後、縄を転がして文様を付ける技法が確立し、よく知られている縄文土器がつくられるようになります。
1万年以上続いた縄文時代は、土器型式に基づき、一般的に草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に区分されます。港区域では草創期の遺構や遺物は発見されておらず、早期前半に当たる約1万年前から縄文時代の人びとの活動が始まります。次の前期に入ると人びとの活動は活発となり、区内の各所で集落が営まれ、貝塚が形成されるようになります。とくに前期前半の黒浜式土器や関山式土器、後半の諸磯(もろいそ)式土器が盛行した時期の遺跡は区内の広い範囲に分布しています。古くから知られている本村町(ほんむらちょう)貝塚も、この時期に形成された貝塚です。ちょうど世界的に温暖化が進み、海水が内陸の奥深くまで入り込んだ縄文海進期の最盛期が過ぎ、海水準が安定していた時期に当たります。
中期以降も、人びとは区域内でさまざまな活動をおこなっていました。伊皿子(いさらご)貝塚遺跡では漁網に使われたとみられる土器片錘(どきへんすい)(土器の破片を加工して作った錘(おも)り)が出土しており、周辺海域で漁をおこなっていたものと考えられます。赤坂台地では竪穴(たてあな)住居跡が検出されており、集落が形成されていた可能性があります。
後期の住居跡は、伊皿子貝塚遺跡で検出された称名寺(しょうみょうじ)式期の敷石(しきいし)住居跡1軒のみですが、貝塚は伊皿子貝塚、西久保八幡(にしくぼはちまん)貝塚が知られており、引き続き人びとの活動が活発であったことがわかります。芝公園の丸山貝塚は、中期後葉の頃から形成されたと考えられている貝塚ですが、後期の土器が出土した記録があります。ただ不思議なことに、これらの貝塚を形成した人びとのすまいは未だにわかっていません。
晩期になると遺跡数は減少します。晩期半ば以降の資料はほとんどみられなくなります。