弥生時代

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 水田稲作農耕を中心とする本格的な農耕文化の時代は、九州地方北部で始まりました。その後、農耕文化は各地に伝わり、北海道と沖縄を除く日本列島全域に広がりました。港区域を含む南関東には、約2,200年前頃に伝来したと考えられています。
 弥生時代は、土器の変化に基づき、前期・中期・後期に大まかに区分され、最近では前期の前に早期を設定する研究者もあります。さらに各期は初頭・前葉・中葉・後葉・終末などと細分して呼び分けられています。港区域には中期中葉の頃に弥生文化が伝わってきました。
 弥生時代の人びとは、基本的に竪穴住居をすまいとしていました。地面を掘りくぼめて床をつくり、そこに4本から6本の主柱を立て、骨組みをつくった上に植物で屋根を葺(ふ)いたものです。ほとんどのすまいが家の中に炉をもっていました。主な生活用具は、はじめは土器と石器で、関東地方では後期になると金属器が使われるようになりますが、港区域でそのことを示す遺物は出土していません。
 土器は、食べ物の煮炊き用の甕形(かめがた)土器、貯蔵用の壺形(つぼがた)土器、盛り付け用の高坏形土器といった具合に基本的な型が定着していきます。
 食糧の基本は米ですが、港区域で水田遺構は発見されていません。ただし土壌分析により、稲作がおこなわれていた可能性が高いと考えられています。
 港区域に最初にやってきた弥生時代の人びとは、芝の台地に墓をつくったと考えられます。その後、三田台周辺に集落を営んだ人びとが、海浜を臨む緩やかな斜面に方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)を構築します。青山台地でも同時期の人びとが活動していた可能性がありますが、詳しいことはわかっていません。後期に入ると、前半では遺跡数が減少しますが、後半には人びとが港区域の各所で集落を営むようになり、とくに飯倉台地、高輪台地周辺で比較的規模の大きな集落が形成されていたことが発掘調査によって明らかになってきました。
(髙山 優)