図2-2-2 住居跡が発見された遺跡の分布状況
国土地理院(https://www.gsi.go.jp)が公開している1/25,000デジタル標高地図をもとに作成
前期(▲): 近江山上藩稲垣家屋敷跡遺跡・本村町貝塚
中期(●): 周防徳山藩毛利家屋敷跡遺跡・長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡
後期(■): 伊皿子貝塚遺跡
ところで、柄鏡形住居は、一般的に、炉がつくられた主たる生活空間(主体部)と出入口に通ずる空間(張り出し部)から構成されますが、この住居跡の張り出し部は明確ではありません。主体部の平面形はおそらく楕円形で、規模は短径が5.8mでしたが、長径は攪乱(かくらん)によりわかっていません(図2-2-3)。床の中央には、直径92cm、深さ約50cmの炉が設けられていました。柱穴は床を囲むように7基検出され、掘り方から、床の中央に向かってやや傾くように柱を建てていたと考えられます。
さて、前頁の図2-2-1にみられるように、この住居跡は、①床面の縁に沿って、柱穴を繋ぐように小石を巡らしていること(縁石)、②主体部の東端近くに、小石を直線状に並べて間仕切りをつくり出していること、③間仕切りから奥の空間を除く主体部の床面上に白砂を敷いていたことから、敷石住居跡であることが判明しました(図2-2-3)。敷石住居とは文字通り床などに石が敷かれた住居で、縄文時代の中期から後期にかけて、中部地方や関東地方を中心に盛んにつくられました。平面形状や石の敷き方などにさまざまな特徴をもつものが知られていますが、伊皿子貝塚遺跡の周辺では大きめの石が入手できないことから、代わりに小石と白砂が用いられたのでしょう。
住居の上屋は火災によって焼失していました。床面を覆っていた、屋根材もしくは壁材とみられる炭化した草本類や、炭化した柱材が被災の様子を物語っています。
出土遺物は少なく、小型の深鉢形土器1点、土器片錘(へんすい)1点、スタンプ状石器1点、礫器(れっき)1点の4点のみでした。深鉢形土器は後期初頭の称名寺式土器と呼ばれるもので、胴部上半から上を欠いています。底部を下にして、縁石の上に立った状態で出土しました。土器片錘は、土器の破片を楕円形に成形して縁に刻みを入れたもので、漁網に着けられたものと考えられています。スタンプ状石器は、木の実などを磨り潰すための石器、礫器は自然石の縁を刃のように加工したものですが用途は不明です。
ここの住居人は、白砂が敷かれた炉のある空間を日々の暮らしに使い、間仕切りされた空間は、物置や宗教的な目的のために使用していたと推測されます。
図2-2-3 敷石住居跡の平面図と遺物等出土状態