赤坂台地の南東端近く、麻布台地に接するあたりに位置する長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡では、中期後半の竪穴住居跡が発見されました。江戸時代以降にその多くは壊されていましたが、南北6.9m、東西6.5mほどの大きさであったと推測されます(図2-2-4)。住居のほぼ中央に、径の長い部分で1.08m、深さが0.18mの炉がつくられ、その中央には口縁部と胴下半部を欠く深鉢形土器が埋められていました。この種の炉を埋甕炉(まいようろ)と言い、炉に据えられた土器を炉体土器と呼びます。炉体土器は、火の勢いを上げたり保つ機能をもっていたと考えられます。竪穴住居の上位が削られたため壁が明確ではありませんが、壁際と推定される場所や炉跡の周りで柱穴が検出されています。遺物は少なく、出土した57点の土器の多くは破片資料でした(図2-2-4)。
近江山上(やまかみ)藩稲垣家屋敷跡遺跡では前期前半の住居跡が1軒発見されています。隣接する遺跡でも同時期の遺物が多数出土していることから、この遺跡の周辺で前期前半の集落が営まれていたことがうかがえます。本村町(ほんむらちょう)貝塚では住居跡とみられる竪穴遺構が検出され、貝塚をともなう集落があった可能性が高いと考えられています。
(髙山 優)
図2-2-4 長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡検出住居跡と出土遺物
写真提供:東京都教育委員会