次の後期に入ると、その前半は人びとの活動がいささか衰えたようで、遺跡が少なくなります。この現象は、港区域に留まらず東京湾西岸域で確認されていますが、詳しい理由は解明されていません。
後期の半ばを過ぎると状況は一変します。武蔵野台地で遺跡数が大幅に増加したことが明らかになっており、港区域では飯倉台地と高輪台地で比較的規模の大きい集落が発見されています。
飯倉台地で発見された後期後半の集落跡遺跡のひとつ、雁木坂上遺跡をみてみましょう。この遺跡は北東方向に突き出る舌状台地の根元付近に立地し、4軒の住居跡と1条の溝が検出されています。発掘調査は北のN地点と南のG地点でおこなわれましたが、うちN地点と呼んでいる調査区で、異形の炉をもつ住居跡が検出されています(図2-4-7)。
図2-4-7 雁木坂上遺跡N地点検出住居跡
住居跡の規模は南北5.0m、東西4.7mで、隅丸方形(すみまるほうけい)を呈し、残存状態は極めて良好です。主柱穴は4本で、南西の壁の外に1本柱穴が掘られており、壁の下には幅15~20cm、深さ3~10cmの溝がほぼ一周します。床面は、壁下の溝周りはローム層ですが、内側はローム層を10cmほど粗く掘り込んだ上に貼り床をつくり、平坦面を形成しています。炉は住居中央から北に寄った位置につくられ、径が90cmほどです。炉の南東側外壁付近には、幅35cm前後、厚み約10cmの粘土帯がブリッジ状に掛けられ、これを天井とする2方向の空気孔と考えられる開口部がつくりだされています(図2-4-8)。炉の床や壁は高熱によって赤くただれていましたが、とりわけ空気孔付近が最も強い火熱を受けていたことが確認されています。遺物は、器種や形状の明瞭な9点の土器のほかに、被熱した石製品と、鉄滓(てっさい)と考えられた粒状の物質が出土しています(図2-4-9)。
図2-4-8 雁木坂上遺跡N地点検出住居跡の炉
図2-4-9 雁木坂上遺跡N地点検出住居跡遺物出土状態
この住居跡については、異形の炉と石製品や鉄滓状の物質から鍛冶工房的な機能をもっていたと考えられましたが結論は出ていません。
弥生時代のむらの跡は、飯倉台地から麻布台地にかけてと高輪台地を中心に発見されています。これらに共通する点は河川に面していることで、いずれも古川によってつくりだされた沖積低地と深く関わっていたと考えられます。また、高輪台地、麻布台地には中期後半の集落跡遺跡も存在し、弥生時代の人びとが時期を違わず同じような立地条件を求めてむらをつくっていたことが推測できます(図2-4-10)。
(髙山 優)
図2-4-10 港区の主要な弥生時代遺跡群
港区教育委員会事務局図書・文化財課編『港区の先史時代Ⅱ 港区の弥生時代』港区考古学ブックレット4(港区教育委員会、2012年)所収図を転載、一部改変。図中の数字は、港区遺跡番号