コラム〈調べる〉港区立郷土歴史館で学ぶ港区の貝塚

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 貝塚は、簡単にいうとごみ捨て場ですが、その内容は時代や立地、人びとの行動によりさまざまです。ここでは、実際の貝層断面を見ながら伊皿子(いさらご)貝塚と西久保八幡(にしくぼはちまん)貝塚を比較して、縄文時代の人びとの暮らしの様子や生業活動について考えてみましょう。また、江戸時代の貝層やごみ捨て場から出土した遺物からは、古文書などには書かれていない市場の様子や食生活の一端を知ることができます。
 

 


 港区立郷土歴史館の常設展示、テーマⅠ『海とひとのダイナミズム』「内湾の海洋資源を求めて1~貝塚の世界~」では、タイムカプセルといわれる貝塚について学ぶことができます。一般に貝塚というと、縄文時代がイメージされると思いますが、この展示室では縄文時代だけでなく、江戸時代の貝塚についても紹介しています。
 展示室に入り、まず目に入るのは幅15mにも及ぶ伊皿子貝塚の貝層断面(①)です。そして、その対面には西久保八幡貝塚の貝層断面(②)が展示されています。いずれも縄文時代後期の貝塚で、発掘現場で検出された貝層断面に接着剤を塗布し、布を貼り付けて貝層を剥ぎ取ってきました。
 これら2つの貝塚の貝層断面を見比べてみてください。伊皿子貝塚は貝ばかりです。主体となる貝はハイガイとマガキですが、ほかにはオキシジミガイやサルボウガイが比較的目立ちます。巻貝のアカガイも見つけやすいかもしれません。また、ハイガイやマガキがまとまっている層や、焚火(たきび)の痕と思われる炭化物と貝が互層を成している場所などもあり、一種類の貝を集中して採集したり、火を焚(た)いて貝の加工をおこなった人びとの行動をうかがうことができます。
 一方、西久保八幡貝塚は小さな貝塚です。貝層断面からは大きく上下に貝層が分かれていること、伊皿子貝塚のように特定の貝が目立つことはなく、さまざまな貝を適度な量、利用していたことが読み取れます。そして、伊皿子貝塚にはほとんど見られなかった土器や魚骨・獣骨が見え、日常的な生活の様子を映し出しています。
 伊皿子貝塚の貝層断面の前には映像機器が設置されています。この機器では貝層の高精細な写真を拡大することができ、展示ケース越しではわかりにくい炭化物の層などもはっきり見ることができます。出土した貝類などの解説もありますので、ぜひ活用してみてください。
 江戸時代の貝塚は雑魚場跡(ざこばあと)で見つかりました。雑魚場は芝の浜で営まれた小規模な魚市場です。発掘調査では200mの範囲に広がる貝層が見つかり、その堆積は最も厚いところで3mに達しました。展示されている雑魚場跡の貝層断面(③)には、割れた二枚貝が多量に見えます。これはバカガイという貝で、別名アオヤギとも呼ばれており、出土した貝の大半を占めています。
 雑魚場跡の貝層断面の隣にあるケースには、江戸時代の大名屋敷跡と町屋跡から出土した食器類や貝殻・魚骨・獣骨などが展示されています。これらは江戸時代の居住地跡から出土したいわゆる「ごみ」で、食べかすである貝殻は大量に出土します。貝殻にはハマグリ・アサリ・ヤマトシジミ・マガキ・アカガイ・アワビ・サザエなどの種が見られますが、バカガイはほとんど出土しません。居住地のごみだけを見ると当時の人びとはバカガイを食べていないのだな、と思ってしまいます。しかし、雑魚場跡の発掘調査でバカガイが多量に出土したことにより、市場でむき身にされたバカガイが、江戸市中に出回っていたことがわかりました。雑魚場跡は江戸時代の貝の加工場だったのです。江戸の町では江戸時代初期に「佃煮(つくだに)」がつくられるようになります。雑魚場でむき身にされたバカガイも、佃煮に加工され人びとの食膳に上ったのかもしれません。
 この展示室にはほかに、貝を採集した時期が推定できる貝殻の成長線を観察する顕微鏡や、クイズ形式で貝について知ることができるデジタル機器もあります。
 貝塚について学びながら、縄文時代から海と関わり続けてきた港区域の人びとの暮らしの様子をひもといてみてください。
(山根洋子)

①伊皿子貝塚貝層断面

②西久保八幡貝塚貝層断面

③雑魚場跡貝層断面


港区内の施設 三田台公園と伊皿子貝塚遺跡
 三田台公園は、伊皿子貝塚遺跡北西の台地上に整備された区立公園です。ここに、伊皿子貝塚遺跡で発見された縄文時代と古墳時代の竪穴住居跡が再現され、貝層の一部が展示されています。なかでも、縄文時代後期初頭の称名寺(しょうみょうじ)式期の再現住居跡では、上屋、住居の内部や人びとの暮らしぶりを学ぶことができます。

縄文復元住居