以上のように、考古資料は近年の発掘調査の進展によりだいぶ充実してきました。さらに、芝公園に築造された芝丸山古墳群に関しても、明治31年調査時の記録の解読が進み、埴輪の所在確認も進展するなど、港区域の古代史研究は新たな局面を迎えています。
一方、文書史料や伝承による港区域の古代史研究も少しずつ前進していることがうかがえます。次に、数少ない文書史料と伝承から、港区域の古代を概観しておきましょう。
白鳳期以前、港区域は「あづま」(吾妻・東など)と呼ばれる地域に含まれていました。それは、碓日坂(うすひのさか)以東もしくは足柄坂以東のいずれかの地域と考えられています。
畿内に興ったヤマト政権は東に勢力を伸ばし、地方行政の基礎組織であるクニを設置します。港区域を含むのちの武蔵国には、支配者として武蔵国造が置かれました。ヤマト政権の勢力下に入った地方豪族は、自らの墳墓として前方後円墳を築造するようになります。芝丸山古墳は、4世紀後半に港区域がヤマト政権に属したことを物語っているのかもしれません。
大化元年(645)6月の乙巳(いっし)の変から翌年の大化改新詔(みことのり)の宣言に至る政変は、のちの律令国家形成の足がかりとなりました。とくに地方行政制度の導入は重要で、中央政府は地方をクニ(国)-コホリ(評、のちに郡)-サト(里、のちに郷)に分けて支配するようになり、乙巳の変から約40年を経た680年代前半、武蔵国が設置されます。
この武蔵国内には久良(くらき)、都筑、多麻など21郡が設定され、うち荏原(えばら)郡と豊島郡が今日の東京23区に該当します。さらに郡の下に置かれた郷をみると、荏原郡御田郷(上高輪・下高輪・高輪台・今里・白金・白金台など)と桜田郷(芝・麻布・赤坂・青山・飯倉など)に今日の港区の地名を見出すことができます。
大化改新に始まった律令制に基づく国づくりは、時代とともに中央集権国家の形を整えていき、その一環として官道整備がおこなわれました。8世紀前半には東海道、東山道など7道が幹線道路とされ、武蔵国は東山道に属しましたが、宝亀2年(771)武蔵国は東海道に移管されます。これにより、相模国から武蔵国府(府中市)を経て、乗潴(のりぬま)(あまぬま)駅(杉並区または練馬区)・豊島駅(北区)を通り下総国に向かう経路が整えられました。その後、10世紀前葉になり東海道の駅路に変化が生じたと考えられています。この頃成立した『延喜式』に、店屋(まちや)・小高・大井・豊島の4駅名が記されており、大井駅が現在の品川区大井に比定されています。豊島駅が先述のように北区御殿前(ごてんまえ)とすることが有力であることから、『延喜式』段階の東海道が港区域を通過していた可能性は高いといえます。
古代の港区域がどのような土地柄であったかを知ることはなかなか困難ですが、これを探る手がかりのひとつに『更級(さらしな)日記』があります。『更級日記』は11世紀中頃に菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)によって著された書物で、著者はここで父の赴任地である上総国から武蔵国を通り相模国に至る道中で見聞きしたことを回想しています。その中に竹芝の海浜部の様子や竹芝寺伝説が描かれていますが、これによれば、浜辺は白砂ではなく泥質の砂が広がっていることや、乗馬の侍が見えないほど背の高い蘆(あし)や荻(おぎ)が生い茂っている武蔵国の景観が綴られています。あまり開発が進んでいない寂寞(せきばく)とした地域であったのかもしれません。
9世紀の末になると関東では武士が台頭し、天慶2年(939)平将門の乱が起きます。律令体制は崩壊し、藤原摂関家が力をふるった10~11世紀を経て、武士が権力を握る新たな時代へと進んでいきます。
(髙山 優)