芝丸山古墳・円墳群の世界

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 芝公園には現在、東京都により史跡指定を受けた芝丸山古墳が存在し、昭和30年代前半までは、芝丸山古墳のほかに10基余りの円墳が点在していました(図3-2-2)。

図3-2-2 芝公園内古墳分布図
『古蹟』2-1(1903年)より作成


 明治30年(1897) 12月、東京帝国大学(現在の東京大学)人類学教室の坪井正五郎(つぼいしょうごろう)(1863~1913、図3-2-3)は小山のひとつを試掘し古墳(円墳)であることを確認すると、翌31年4月にかけて芝丸山古墳・円墳群の本格的な発掘調査をおこないました。芝丸山古墳・円墳群は、港区内にあって考古学的な発掘調査が行われた稀有(けう)な古墳なのです。
 芝丸山古墳(図3-2-4)は、全長が100mを超える都内最大級の前方後円墳といわれ、南は古川によって刻まれた谷と、芝の微高地に臨み、東は海を遠望する、芝公園の台地の南端に築造されました。基盤の標高は20m前後と考えられ、南に前方部、北に後円部がつくられています。主軸は多少東に振れ、前方部の幅は40mほど、後円部は径が約65mで、高さが6~9mであったと推定されています。細長い前方部とあまり高さのない墳丘は前期古墳の特徴を示しており、4世紀後半に築造されたと考えられています。

図3-2-3 芝丸山古墳で検出された巨石の上に立つ坪井正五郎
個人所蔵・学習院大学史料館寄託

図3-2-4 芝丸山古墳


ところで、坪井が芝丸山古墳を発掘した際、遺体を葬った可能性の高い場所は既に掘り起こされた後でした。発掘調査で、寛永通宝3枚を含む銭貨12枚が出土したのです。当時、これらの寛永通宝が寛永13年(1636)から明暦年間(1655~1658)に鋳造されたものとする調査結果が出され、坪井は、芝丸山古墳の主体部の推定位置付近が、承応3年(1654)の増上寺五重塔建立時に掘り起こされたと考えました。
芝丸山古墳の近辺には10基余りの円墳が点在していました。坪井は調査時、これらの円墳に第十一号までの番号を振りましたが、現在、増上寺境内西向観音裏に位置する坪井の第十一号小古墳は芝丸山の円墳群とは切り離されています。坪井が精査した円墳は 第一号および第四号から第九号までの計7基でした。坪井の調査から60年を経た昭和33年(1958)、明治大学考古学研究室が芝丸山古墳の実測調査と第一号墳・四号墳の発掘調査をおこないました(図3-2-5)が、両者の調査から、これらの円墳は封土が小さく、石室がとくに小規模であること、ほとんどの古墳で多人数の埋葬が確認されたことが特徴としてあげられており、6世紀に築造されたと考えられています。
 芝丸山古墳・円墳群には、地方の時々の有力者とみられる人びとが葬られました。被葬者は、古墳の位置から海上交通を差配した人びとであったとも考えられています。

図3-2-5 芝丸山古墳・円墳群発掘調査時の様子