台地のむらと微高地への進出

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 長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡で検出された古墳時代前期の竪穴建物跡群は、港区内で発見された原始・古代の集落跡としては最大規模です(図3-3-1・図3-3-2)。

図3-3-2 長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡古墳時代竪穴建物跡分布図

『港区 萩藩毛利家屋敷跡遺跡』第2分冊(東京都埋蔵文化財センター、2005年)より転載、一部改変


 これらの竪穴建物跡はすべてが江戸時代以降に攪乱(かくらん)を受けていましたが、平面形状が確認できた竪穴建物跡をみると、長方形か、隅丸方形あるいは方形で、規模は小型の竪穴建物跡が3.4~3.5m四方、大型になると各辺が8mを超える住居がつくられたようです。いずれの竪穴建物跡も壁の下に周溝が掘られ、後世の大きな攪乱を免れた竪穴建物跡では、中央やや西寄りに炉が設けられていたことが確認されています。柱穴の検出状況から屋根を支える主要な柱は4本が基本であったと考えられ、貯蔵穴や出入口の施設に関わるとみられるピットが検出された竪穴建物跡もあります。そのうちの1軒、土製管玉(くだたま)が出土した3号竪穴建物跡をのぞいてみましょう(図3-3-3)。
 

図3-3-3 長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡3号住居跡全景
写真提供:東京都教育委員会


 この竪穴建物跡は、調査区の南西隅付近で検出されました。平面は東西方向がわずかに長い長方形で、規模は長辺が約7.9m、短辺が約7.4mです。壁の下には周溝が回り、住居の中央やや西寄りに、長径93cm、短径68cm、深さが15cmの炉が掘られ、主柱穴3基と出入口の施設に関わると考えられるピット1基が検出されています。本来、主柱穴は4基であったと推測されますが、後世の攪乱で壊されたのでしょう。出土遺物は土器のみで、壺、甕、高坏(たかつき)、鉢および管玉(図3-3-4)など59点でした。

図3-3-4 長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡3号住居跡出土遺物

『港区 萩藩毛利家屋敷跡遺跡』第2分冊(東京都埋蔵文化財センター、2005年)収載図を転載、改変


 次に小型の竪穴建物跡から5号竪穴建物跡(図3-3-5)をみてみましょう。3号竪穴建物跡の南東に位置するこの竪穴建物跡は、平面が長軸約4.6m、短軸約4.25mの丸みを帯びた長方形で、周溝が南半分に巡らされ、炉は建物のやや西寄りにつくられていました。4基のピットが検出されていますが、主柱穴は明確ではなく、1基は出入口に関係するものと推定されています。遺物は、壺、台付甕、高坏が、建物跡の東隅付近でまとまって出土しました(図3-3-6)。

図3-3-5 長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡5号竪穴建物跡全景
写真提供:東京都教育委員会

図3-3-6 長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡遺物出土状態
写真提供:東京都教育委員会


 ところで、この地に古墳時代の人びとがむらを営んだ頃、港区域で古墳の築造が始められた形跡は確認されていません。有力者は方形周溝墓に葬られていたと考えられます。芝の微高地上に立地する薩摩鹿児島藩島津家屋敷跡第1遺跡(図3-3-7)で、古墳時代前期に構築されたと考えられる溝状の遺構が検出されています(図3-3-8)。溝の北東側で内側に向かって土砂を盛り上げたと考えられる土層堆積状態が確認されたことから、調査時に方形周溝墓とされた遺構です。しかし出土土器(図3-3-9)をみると、壺形土器に比べて甕形土器あるいは台付甕形土器が多く、しかも、台付甕形土器の台部にススの付着がみられ、煮炊きなどに用いられた可能性が高いです。この点を近年の方形周溝墓研究の成果と照らし合わせてみると、全体の形状などが明確ではない現状から、墓以外の遺構である可能性を考えておく必要があります。いずれにせよ、薩摩鹿児島藩島津家屋敷跡第1遺跡の発見により、古墳時代前期の人びとが芝の低い土地に進出していたことが明らかとなりました。
 なお、この方形遺構と同様の遺構が、麻布仲ノ町地区武家屋敷跡遺跡でも検出されています。

図3-3-7 薩摩鹿児島藩島津家屋敷跡第1遺跡推定位置

薩摩鹿児島藩島津家屋敷跡第1遺跡は、古川入江の南に形成された砂州上に立地していると考えられ、発掘調査の所見もこの点を裏付けている。角田清美「東京都心部の小地形と海岸線の変化」(『駒澤地理』52、2016年)収載図(部分)を転載、一部加筆

図3-3-8 薩摩鹿児島藩島津家屋敷跡第1遺跡遺構検出状況

図3-3-9 薩摩鹿児島藩島津家屋敷跡第1遺跡出土遺物(縮尺1/4)

『薩摩鹿児島藩島津家屋敷跡第1遺跡発掘調査報告書』(港区教育委員会事務局、2002年)収載図を転載、改変