亀山碑と『更級日記』

57 ~ 57 / 278ページ
 三田の聖坂を東から登り切ったあたりに亀塚があります。亀塚は、本章2節に述べられているように古墳と考えられる人造の塚ですが、その頂部に幅約2.2m、地上部の高さ1.4mほどの石碑が据えられています。この石碑は「亀山碑」(図3-4-1・図3-4-2)といい、寛延3年(1750)、上野国沼田藩(現在の群馬県沼田市)第4代藩主土岐頼熈(ときよりおき)によって建てられました。土岐家は、明暦3年(1657)に三田済海寺に接するこの地を下屋敷として拝領しました。文人大名として知られる頼熈は、屋敷内に築造されていた亀塚の頂上に、竹芝寺伝説と亀塚にまつわる伝承を刻んだ亀山碑を建てたのです。
 竹芝寺伝説とは、『更級日記』に記された皇女と衛士(えじ)の恋物語です。平安時代後期の寛仁4年(1020)、東国から京に戻る一組の父娘がありました。父の名は菅原孝標(すがわらのたかすえ)といい、孝標の娘が、帰京から約40年を経た康平3年(1060)頃に書き上げた一編の回想録が『更級日記』です。その中に「今は武蔵の国になりぬ」で始まる一文があり、黒っぽい砂泥の浜辺と蘆(あし)や荻(おぎ)の生い茂る原野が続く武蔵野の情景が綴られています。さらに『更級日記』は、都から落ち延びてきた皇女と衛士(えじ)の話に続きますが、この孝標父娘がたどった道が、三田台から高輪台にかけて通じている官道と考えられています。
 物語では、皇女が亡くなると衛士は居所を寺に変えます。それが竹芝寺で、三田済海寺はその跡地に当たると亀山碑に刻まれています。ちなみに皇女と衛士の子孫は、後に武蔵竹芝(武芝とも)を称する豪族となったとあります。ただ、竹芝寺の故地については異説もあり確定はできていません。

図3-4-2 亀山碑拓影・翻刻
旧字・異体字は適宜新字・正字に直した