中原道は、現在の東京都と神奈川県平塚を結ぶ往還で、東海道が整備されるまでの幹線道でした。江戸時代に作成された「東都近郊図」(図3-4-3)に経路が記載されており、港区域では白金、三田の地名がみえます。中原道を西方からたどると、五反田から上大崎付近を過ぎて港区域に入り、高輪二本榎、伊皿子、亀塚の北西から済海寺の門前を通り、聖坂を下ったところで北に向きを変え、現在の飯倉交差点から神谷町を抜けて虎ノ門付近まで通じていたとされています。この道沿いで、古代の遺跡が点々と発見されています。
図3-4-3 「東都近郊図」(部分・加工)
○内に「中原道」と記載されている 品川区立品川歴史館所蔵今井金吾コレクション
高輪地区では、信濃飯山藩本多家屋敷跡遺跡で古代の集落跡が発見されています(調査中)が、その北方に位置する承教寺跡・承教寺門前町屋跡遺跡では、南北約9.3m、東西約7.1mの大型の竪穴建物跡が検出されました。北壁の中央に竈(かまど)が据えられ、7基の柱穴と壁下の溝が検出されています。柱穴の様子から建て替えがおこなわれたことが確認されています。遺物は、土師器(はじき)の甕(かめ)や坏(つき)、須恵器(すえき)の坏のほか、銅製とみられる耳環(じかん)(環(わ)の形をした耳飾り)が1点出土しており、8世紀前半の竪穴建物跡と考えられています(図3-4-4・図3-4-5)。さらに北の、東海大学高輪台キャンパス内でもほぼ同じ時期の竪穴建物跡が検出されています。
図3-4-4 承教寺跡・承教寺門前町屋跡遺跡検出住居跡
港区教育委員会事務局『承教寺跡・承教寺門前町屋跡遺跡発掘調査報告書』(2004年)収載図を転載、改変
図3-4-5 承教寺跡・承教寺門前町屋跡遺跡検出住居跡出土遺物
三田地区に入ると、三田台町遺跡や伊皿子貝塚遺跡で古代の竪穴建物跡が発見されています。ことに伊皿子貝塚遺跡では古墳時代と平安時代の竪穴建物跡が検出され、平安時代の竪穴建物跡からはウマの顎骨が出土しました(図3-4-6)。もともと頭蓋が残されていたと考えられ、馬の頭蓋を軒下や屋内の柱に厄除として懸ける江戸時代の風習を参考例に、ウマの顎骨が出土した背景が検討されています。伊皿子貝塚遺跡ではまた、方形周溝墓の一画からウシの頭骨が出土しました(図3-4-7)。この資料は、調査時以来、弥生時代中期にさかのぼる家牛の頭骨とされてきましたが、先年、骨コラーゲンによる炭素14年代測定をおこなったところ、奈良時代から平安時代前半に相当する8世紀後半から9世紀後半のものであることが確認されました。ウマの顎骨が出土した建物跡との関係から、また層位学の点からもこの測定結果が不自然ではないと判断しています。
図3-4-6 伊皿子貝塚遺跡ウマ出土状態
図3-4-7 伊皿子貝塚遺跡ウシ出土状態