コラム〈調べる〉先端都市にひそむ古代の息吹

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 今日の港区では、当時の状態を留めている古代の遺跡や史跡はほぼ皆無です。その中で、芝丸山古墳は往時の姿をしのぶことができる数少ない遺跡です。寺社では、天長元年(824)に空海によって開山されたといわれる善福寺、天慶(てんぎょう)3年(940)に創建されたとされる烏森神社や、天慶の乱との関わりが考えられている麻布氷川神社などがあります。ここでは、芝丸山古墳を起点に古代の遺跡や史跡をめぐります。
 

 


 東京都指定史跡・芝丸山古墳(①)は、増上寺の西方に連なる小高い丘陵の上にあります。その東方から南方にかけては、かつては低地や微高地が広がっており、現在の東京湾がよく眺望できたに違いありません。芝丸山古墳は長さが100mを超える都内最大級の前方後円墳で、南に前方部、北に後円部がつくられています。墳丘は、江戸時代に上部が削られ、昭和に入り西側の一部が削り取られてしまいましたが、古墳の規模や形状を推測するに足る姿を留めています。芝丸山古墳は4世紀後半の築造と考えられており、その周辺には、6世紀から7世紀前半頃の築造とされる10基余りの円墳が昭和30年代前半まで点在していました。また、芝丸山古墳がつくられた台地の南側を流れる古川の南方の微高地で、弥生時代末から古墳時代の遺跡が発見されています。
 

「芝円山古墳調査略記」(部分)
個人所蔵・学習院大学史料館寄託

明治31年(1898)に作成された芝丸山古墳・円墳群の調査記録。作成者は旧棚倉(たなぐら)藩(現在の福島県)藩主阿部正功(あべまさこと)。右図から古墳の分布状況がわかる。


 
 古川沿いを上流に向かってたどってみましょう。古川(②)は海手から西に向かい、港区のほぼ中央に位置する麻布十番で流れを変えると、麻布台地の縁をめぐるように上流に向かいます。古川に面した麻布台地東側斜面の上部に、天長元年(824)、空海によって開かれたといわれる麻布山善福寺(③)があります。さらに善福寺の西方には、天慶元年(938)に創建された麻布総鎮守の氷川神社(④)が鎮座し、さらに西方の有栖川宮記念公園(⑤)内には古墳が2基存在したと報告されています。公園の南に位置する石見津和野藩亀井家屋敷跡遺跡(⑥)では、9世紀前半の火葬蔵骨器が出土しています。
 次に、芝丸山古墳の北方に足を運んでみましょう。
 芝丸山古墳の北には、関東大震災のころまで西向観音山(にしむきかんのんやま)古墳と呼ばれた円墳があったようです。周囲には円筒埴輪が立ち、石棺の一部と考えられる板石が出土したと伝えられています。これらの古墳がつくられた台地は、増上寺旧境内の北の鞍部を経て愛宕山(⑦)に続きます。かつては、この東方に日比谷入江と呼ばれる低湿地が広がっていました。烏森神社(⑧)の創建が古代まで遡るか否かは不明ですが、この低湿地の縁辺(えんぺん)に形成された砂州(さす)上に建てられた可能性があります。
 さて、芝丸山古墳から飯倉台地を六本木に向かいましょう。古代の集落跡が発見された東京タワーの敷地の前を北西に進み、飯倉交差点を過ぎたあたりから飯倉台地の尾根筋に入ります。飯倉台地から麻布台地、赤坂台地にかけての一帯は、長門萩藩毛利家屋敷跡遺跡(⑨)をはじめとして、港区内で最も多くの古代の遺跡が発見されている地域で、赤坂氷川神社(⑩)境内には古墳が存在したことが知られています。こうした遺跡は、残念ながら近年の再開発などによって消失してしまいましたが、地形などから古代の人びとの活動の一端を読み解くことはできるかもしれません。
(髙山 優)
 

③麻布山善福寺

④麻布氷川神社

⑧烏森神社

⑩赤坂氷川神社


 
港区内の施設 港区立郷土歴史館で学ぶ芝丸山古墳群
 港区立郷土歴史館テーマⅠ「海とひとのダイナミズム」の3番目の展示室に、芝丸山古墳群第1号墳出土遺物(明治大学博物館所蔵)が展示されています。これらの資料は、昭和33年(1958)に明治大学考古学研究室が行った発掘調査によって出土した副葬品です。第1号墳は積み土の流失などにより形が歪んでいましたが、調査により径が15m内外の円墳と推定されました。石室は、円礫(えんれき)の上に扁平な自然石を積み上げてつくられた横穴式石室と考えられており、遺物は、装身具(金環、棗玉(なつめだま)、管玉(くだたま)、ガラス製小玉)、武器(直刀(ちょくとう)、刀子(とうす)、鉄鏃(てつぞく))、土師器(甕、坏)、須恵器(長頸壺(ちょうけいこ))、用途不明の鉄製品が出土しました。遺物とともに、明治31年(1898)に野中完一(号は瓶廼舎尚古)によって作成された1/600測量図が展示されています。芝丸山古墳群を形成する前方後円墳(芝丸山古墳)・円墳群の荒廃が顕著になる前の様子がわかる貴重な図面です。古代、芝丸山古墳群が築造された台地上からは海を望むことができたでしょう。近くを川が流れていたと推定されています。芝丸山古墳群は、海上交通や流通に深く関わった地方豪族の墳墓とも考えられています。
 

芝丸山古墳群第1号墳出土遺物(明治大学博物館所蔵)の展示風景

「芝公園内古墳発掘地々図」
縮尺六百分一 明治31年6月8日 個人所蔵・学習院大学史料館寄託