古代末期の武蔵国は、平将門の乱(935~940)や浅間山の噴火(1108)などにより荒廃し、地域の武士が復興事業を担いました。国内は寺社権門の荘園として、あるいは公領として再編成され、在庁官人(ざいちょうかんじん)には秩父平氏(ちちぶへいし)などの有力武士が入り込みました。やがて秩父平氏は、武蔵最大の武士団として国内各地に定着しました。武蔵武士の中には、前九年(1056~1062)・後三年(1083~1087)の東北の戦乱に早くも河内源氏に従った者や、12世紀半ばの平家知行国時代に平家との関係を深めた者もいましたが、武家の棟梁(とうりょう)と強固な関係を結んだのは、治承4年(1180)鎌倉に入府した源頼朝(1147~1199)との間からです。
港区域は、そのころ、秩父平氏流の江戸氏の勢力範囲だったと考えられます。江戸氏は武蔵国江戸郷(現在の千代田区)を名字とし、鎌倉御家人として活躍しました。
図4-1-1 江戸太郎重長像
慶元寺(世田谷区)