室町時代

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 関東地方の内乱は、15世紀に入ると、上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱(1416)、永享(えいきょう)の乱(1438~1439)、享徳の乱(1454~1482)と連続します。これらは、専制的な鎌倉公方足利氏と、これに対立する関東管領(かんれい)上杉氏という構図になります。
 永享の乱では足利持氏が自害に追い込まれ、上杉氏の権力が確立しますが、享徳の乱では持氏の遺児成氏(しげうじ)(1438~1497)が関東管領上杉憲忠(うえすぎのりただ)を謀殺するも、幕府軍に追及され、古河(現在の茨城県古河市)に逃れることとなります。この緒戦の段階で、成氏が戦勝祈願した文書が烏森(からすもり)神社(新橋二丁目)に現存しています(享徳4年正月5日「足利成氏御教書」)。享徳の乱は、利根川を挟んで、古河公方対上杉氏という形で30年も打ち続きます。東国ではこの戦乱以降、戦国時代と捉えることが可能で、関西の戦国時代の発端である応仁・文明の乱(1467~1477)より10年早く戦国時代が始まったことになります。
 この時代、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰(かさい)(執事)として大活躍したのが太田道灌(おおたどうかん)(1432~1486、図4-1-3)です。道灌は、山吹の里伝承や江戸城の築城などでよく知られるように、文武両道の人だったようですが、主君扇谷定正の疑いを招き、謀殺されてしまいました。港区内にも数多くの伝承を残しています。

図4-1-3 太田道灌像
東京国際フォーラム(千代田区)