山内(やまのうち)上杉氏と扇谷上杉氏が対立した長享(ちょうきょう)の乱(1487~1505)の末期から小田原北条氏の進出が始まります。大永4年(1524)北条氏2代氏綱(うじつな)は、江戸城代の太田資高(すけたか)・資貞(すけさだ)兄弟の内通を得て、江戸城を入手しました。なお、この時、高縄原の縄手道(現在の高輪三丁目周辺)で合戦がおこなわれ、一ツ木原(現在の赤坂五丁目周辺)で北条氏綱(1487~1541)による上杉朝興(うえすぎともおき)方の首実検がおこなわれたと言われていますが、これらは『相州兵乱記』などの江戸時代の軍記による創作とされています。江戸城の攻防をめぐっては区域での合戦はなかった可能性が高いですが、港区域はこれを契機に、小田原本城(現在の神奈川県小田原市)の支城となった江戸城の管轄を受ける「江戸廻(まわり)」に編入されました。
江戸城には、富永氏・遠山氏・太田氏が城代として入り、江戸廻を管轄していきます。港区域は、北条氏直轄領も入り組む飯倉、北条家と姻戚関係にある世田谷吉良氏の芝村、そして江戸太田氏・島津氏などの北条氏家臣の所領が散在していました。
小田原北条氏は、氏綱の後、氏康(うじやす)・氏政(うじまさ)・氏直(うじなお)と版図(はんと)を広げ、検地に基づく貫高(かんだか)制など、進んだ民政を展開し、関東地方の大半を統治していきますが、さらに進んだ畿内の豊臣秀吉の統一権力の前に滅ぼされます。そして、空白地帯となった関東地方には、東海地方から徳川家康が入ってくることになります。
(今野慶信)
図4-1-4 永禄9年(1566)「北条氏朱印状」
(善福寺文書)都指定有形文化財 善福寺所蔵