10世紀頃から古代律令制は徐々に変質し、とりわけ地方政治は、受領国司(ずりょうこくし)が国々の実情に応じて行政を司るようになっていきます。武蔵国の場合、留守所総検校職(るすどころそうけんぎょうしき)という国府トップの存在が知られ、国司は遥任(ようにん)(在京)として下向せず、行政事務は現場の在庁官人たちに任されていました。留守所総検校職は、後付けの職名だった可能性も指摘されていますが、秩父重綱(ちちぶしげつな)以来、武蔵国最大の武士団である秩父平氏が世襲するようになっていました。
行政の変化は、土地制度の変化に顕著に現れます。例えば、多摩郡が多東(たとう)郡・多西(たさい)郡といった具合に、国内の郡が東西南北に分割され、一部の郷が消滅し、新たな郷が誕生したりと、律令で定められたものではない行政単位が登場してきます。しかし、港区域が属する荏原(えばら)郡は荏原郡のままでしたし、区域内に比定されている桜田郷や三田(御田)郷も存続しています。もっとも荏原郡や桜田郷・三田郷は古代のままではありませんでした。