飯倉御厨

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図4-2-2 六本木天祖神社(六本木七丁目)


 
 中世らしい土地制度としては荘園があります。荘園は中央の大寺社や有力貴族などの私領ですが、港区域には伊勢神宮領荘園である飯倉御厨(現在の飯倉)がありました。もともと飯倉郷という公領が荘園になったものと考えられます。伊勢神宮の荘園を「御厨」と言いますが、神に捧げる海産物などの贄(にえ)(供物)を調達する場所という意味です。しかし、飯倉御厨の内実を示す史料はほとんどありません。ただ、伊勢神宮の所領を国別に書き上げた南北朝期成立の『神凰鈔(じんぽうしょう)』に、年貢は現納ではなく、5貫文の代銭納となっていること、50町の面積だったことが記されています。ちなみに下総国葛西郡の南半分に成立した葛西御厨(かさいのみくりや)(現在の葛飾区・江戸川区)が面積180町ですので、その3分の1程度の規模だったことがわかります。
 荘域については、伊勢の分社・神明宮(天祖神社)の分布が手がかりになります。荘園の中心は、荘鎮守の芝大神宮(飯倉神明宮・日比谷神明とも。現在の芝)です。もともと飯倉山(現在の芝公園)に鎮座していたとも言います。芝大神宮の所在地について、「日比谷郷」と記すものもありますが、それは現在地の芝のことかもしれません。
 芝西久保の飯倉城山(現在の虎ノ門)には、城山神明宮(龍土神明宮とも。現地に移転し、六本木天祖神社・図4-2-2)がありました。したがって、大体、飯倉・芝あたりが飯倉御厨の荘域と考えられます。
 源平合戦さなかの元暦元年(1184)5月3日、源頼朝が伊勢神宮に当地を寄進しています(『吾妻鏡』元暦元年5月3日条)。
 
 寄進 伊勢皇太神宮御厨一処
     在武蔵国飯倉
 右志者、奉為 朝家安穏、為成就私願、
 殊抽忠丹、寄進状如件、
     寿永三年五月三日
         正四位下前右兵衛佐源朝臣
 
 これは、この時点で初めて御厨として成立したということではなく、改めて頼朝が寄進し直したということだと思われます。このような例は下総国相馬御厨(現在の千葉県柏市ほか)などに見られます。「芝大神宮縁起」には「其宮殿のありさまハ、東にむかひ鎮座ありて、前なる馬場先数十間にして樹木ならひ生して、其中間中間に三の鳥居・二の鳥居あり。就中(なかんずく)一の鳥居は東の海辺にありて、汐のさしひき鳥居のもとにいたりて網干あり。此海つら東南につつきて、向ふは安房・上総隔なし。浜つつきに海人住て漁いとまあらす」とあります。当社は、東向きで、東京湾に面した海民の神様でした。飯倉郷を伊勢神宮に寄進するにあたっては、現地における海民たちの活発な活動がその背景にあったのかもしれません。