三田郷

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 古川南岸の三田台を中心とする三田郷は、古代の御田郷を継承したものと考えられますが、中世の史料には断片的に現れます。三田郷を考える上で、注目したいのは御田八幡神社(図4-2-5)です。御田八幡神社は、古代の『延喜式』式内社の「薭田八幡」に比定されています(大田区蒲田の薭田神社という説もあります)。古くは窪(久保)三田(三田一丁目)にありましたが、江戸時代に現在地に遷座したといいます。旧在地の窪三田には、旧地を示す石碑が残っていますが、三田台を下った古川沿いの場所です。この御田八幡から、古川南岸の三田台を中心とした地域が、三田郷と考えられます。戦国時代の史料には、郷内にいくつかの寺院が見えており、台地の上を走る幹線道路沿いに寺院が展開していたことも想像されます。
 なお、三田には、平安時代の武士・源頼光(らいこう)四天王の一人とされる渡辺綱(つな)に関する伝承が多く残ります(図4-2-6)。綱は武蔵国足立郡箕田(みた)郷(現在の埼玉県鴻巣市)を所領とした嵯峨源氏の源宛(あつる)の子とされます。綱の子孫である渡辺党は、摂津国渡辺津(現在の大阪市中央区)を本拠とした武士団となりますが、三田郷との関係は不明です。源宛の武蔵国における活動は、『今昔物語集』などに描写されています。三田郷と渡辺綱とのつながり自体は、三田と箕田との同音からの付会と考えられるものの、貴重な中世伝承として大切にしたいものです。
(今野慶信)

図4-2-5 御田八幡神社(三田三丁目)

図4-2-6 綱坂(三田二丁目)