江戸氏の職能として、渡し場の管理は見逃せません。頼朝の隅田川渡河作戦だけでなく、延文3年(1358)多摩川河口部の矢口の渡しにおいて、江戸高良は新田義興を謀殺しています(図4-3-7)。矢口の渡しは、鎌倉街道下道が通過する多摩川の渡河点で、荏原郡六郷保の原郷(現在の大田区)と橘樹郡(たちばなぐん)丸子保内平間郷(現在の神奈川県川崎市中原区)を渡していました。両岸とも江戸氏の所領です(図4-3-3)。
このように、鎌倉時代初期と南北朝時代の2つの時期に、合戦の帰趨(きすう)が決せられた要衝石浜を支配し、同時に渡し場の管理人という特性を持った武士団江戸氏が、港区域を支配していたのです。
(今野慶信)
図4-3-6 石浜・武蔵野合戦要図
海津一朗「入間川公方府とその時代」(1996年)をもとに作図
図4-3-7 新田神社(大田区)
矢口の渡しの近傍に鎮座。新田義興を祀る。