石浜合戦と江戸氏

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 時代が下って、南北朝期の江戸氏は、秩父平氏を中心に結成された「平一揆」に属し、鎌倉公方直轄軍として活躍しました。文和元年(1352)上杉憲顕(うえすぎのりあき)ら旧足利直義党は、南朝方新田義宗(にったよしむね)・義興(よしおき)らと組んで上野国で蜂起し、鎌倉を一時占領します。鎌倉を追い出された足利尊氏は、武蔵国に下向し、久米川(現在の東村山市)に着陣して、江戸高良・冬長・石浜上野介らを含む平一揆ほかの軍勢都合8万騎を集結させました。ところが、人見原(府中市)・金井原(小金井市)でまたしても敗れ、命からがら江戸氏の館がある石浜に入ります。そして石浜に千葉氏胤(ちばうじたね)・小山氏政(おやまうじまさ)・結城直光(ゆうきなおみつ)ら諸大名が駆け付け、反転攻勢に成功しました。観応の擾乱の一コマ、石浜・武蔵野合戦です(図4-3-6)。
 江戸氏の職能として、渡し場の管理は見逃せません。頼朝の隅田川渡河作戦だけでなく、延文3年(1358)多摩川河口部の矢口の渡しにおいて、江戸高良は新田義興を謀殺しています(図4-3-7)。矢口の渡しは、鎌倉街道下道が通過する多摩川の渡河点で、荏原郡六郷保の原郷(現在の大田区)と橘樹郡(たちばなぐん)丸子保内平間郷(現在の神奈川県川崎市中原区)を渡していました。両岸とも江戸氏の所領です(図4-3-3)。
 このように、鎌倉時代初期と南北朝時代の2つの時期に、合戦の帰趨(きすう)が決せられた要衝石浜を支配し、同時に渡し場の管理人という特性を持った武士団江戸氏が、港区域を支配していたのです。
(今野慶信)

図4-3-6 石浜・武蔵野合戦要図
海津一朗「入間川公方府とその時代」(1996年)をもとに作図

図4-3-7 新田神社(大田区)
矢口の渡しの近傍に鎮座。新田義興を祀る。