「小田原衆所領役帳」

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 北条氏は、小田原城(現在の神奈川県小田原市)を本城とし、各地に点在する支城を中心にそれぞれを「領」と呼ぶ単位に編成しました。例えば、武蔵国では小机(こづくえ)城(現在の神奈川県横浜市港北区)の小机領、岩付城(現在の埼玉県さいたま市)の岩付領などです。旧豊島郡や荏原(えばら)郡域は、江戸城を中心に、「江戸廻(まわり)」に編成されました。支城には、北条氏一門や重臣が城主や城代として配置され、小田原城からある程度独立した支城領支配が認められていました。江戸城には、本丸に富永政辰(まさとき)、二の丸(中城か)に遠山直景(とおやまなおかげ)、香月亭(外城か)に太田資高が入り、この3名が江戸城代として江戸廻りの支配に当たりました。富永は伊豆水軍出身の重臣で、遠山は当時の家臣のなかで最有力の宿老(しゅくろう)であり、いずれも江戸地域には新来者です。一方、太田資高は太田道灌(どうかん)の孫で、もともと江戸地域を本拠としており、旧領主として前代からの支配を認められたのでした。
 所領役帳は、家臣一人一人ごとに、知行貫高(かんだか)・郷村名・役賦課状況を記載しています。
 それでは、以下、区域の地名が出てくる部分を引用してみましょう(中略表記は煩雑なので省略)。
 
 御馬廻衆知行役之帳
一、狩野大膳亮(泰光)
   五十三貫二百文    江戸 阿佐布
一、大草左近大夫(康盛)
   三十九貫七百八十文  飯倉之内前引
江戸衆
一、興津加賀守
   買得 三十貫七百文
元板橋知行 江戸桜田内 平尾分(方ヵ)
一、島津孫四郎
   三十八貫百五十文 飯倉内桜田 善福寺分
                  法林寺分
   十九貫九百文    金曽木内 金剛寺分
一、島津衆 太田新次郎
   二貫三百文     江戸 桜田 池分
一、飯倉弾正忠
   二貫八百七十二文  飯倉之内
一、島津孫七郎
   四貫八百四十文 三田坂間分
一、太田大膳亮
   六十二貫六百文  一木貝塚 丙申検地辻
一、太田新六郎(康資)知行
   九貫八百文  同(江戸) 今井伊佐分
   十四貫八百五十文
       江戸飯倉内 小早川同人 蒲田(助五郎)分
   五貫文 江戸 三田内寿楽寺分 品川分
   二十貫文   同(江戸) 銀 新井分
   三貫七百文  同(江戸) 三田内  箕輪寺置分
一、太田源七郎(景資)
   十九貫文   江戸廻 桜田村 西村分
一、中村平次左衛門
   十貫四百文  江戸 三田内 高福寺分
一、本住坊寺領
   十八貫四百十五文  三田内 総領分
松山衆
一、渡辺丹後
   二十七貫五百文  大普請之時半役
               江戸今井
 
 このように「小田原衆所領役帳」には、飯倉・阿佐布(麻布)・三田・今井(現在の六本木)・銀(白金)・一木(現在の赤坂)などの地名が見えています。このうち、飯倉は広域地名として使用されています。おそらく飯倉御厨(いいくらのみくりや)を継承した地域でしょう。「飯倉之内前引」と見えますが、「前引」がどこかは不明です。また、「飯倉内桜田 善福寺分」とあり、桜田(中心は千代田区霞ヶ関・永田町一帯)も含んでいます。そして、桜田は、「江戸 桜田 池分」とか「江戸 桜田内 平尾分(方ヵ)」と見えるので、溜池(現在の赤坂)と平尾(現在の広尾)を含んでいたことがわかります。ただし、「江戸 桜田村 西村分」などのように飯倉表記がない場合もあるので、桜田の一部が飯倉郷に含まれていたと思われます。