港区域の戦国領主たち

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図4-4-2 「小田原衆所領役帳」に見える港区周辺の地名

則竹雄一「『北条氏所領役帳』にみる[江戸廻]」(池享ほか編『みる・よむ・あるく 東京の歴史1』通史編1、吉川弘文館、2017年)をもとに作図


 
 支城には、衆と呼ばれる家臣団が配されました。北条家臣団は、小田原衆を筆頭に14の衆から成ります。江戸城には「江戸衆」が属しました。「江戸衆」は遠山綱景(つなかげ)(直景嫡男)を筆頭に、78名の名前が記載されています。ちなみに、江戸衆の合計貫高は、1,419貫文余(直接支配:931貫文、寄子(よりこ)衆に配当488貫文)となります。
 北条氏の衆は、寄親(よりおや)-寄子関係で構成されていましたが、江戸衆の寄親は太田康資(やすすけ)のほか、遠山氏・富永氏・三善姓大田氏で、寄子は同心とも呼ばれ、北条氏の前では等しく同輩となります。
 では、港区域を領した領主を貫高の高い順に見てみましょう。
 ①大田大膳亮(おおただいぜんのすけ)
 一木を領した大田大膳亮が、港区域で1番の貫高62貫600文を割り宛てられました。大田大膳亮は、鎌倉府奉公衆の三善姓大田氏で、大田宗真(そうしん)の子と思われます。仮名弥太郎。のち越前守。もと江戸太田氏の同心でしたが、北条氏の家臣となり、江戸城の城将に抜擢され、寄親のひとりになりました。一木はもともと江戸太田氏の所領でした。本領は江戸芝崎(現在の千代田区)に544貫文余。古河公方家への取次役を務めました。妻は遠山綱景女と伝えます。
 ②島津孫四郎
 第2位は、区域で2か所、飯倉内桜田と金曽木(金杉)に知行地がある島津孫四郎の58貫50文です。品川を本拠とした島津忠貞の嫡男と思われます。相模国西郡桑原郷(現在の神奈川県小田原市)を本領とし、江戸を中心に合計500貫文を有し、遠山氏配下の島津衆の寄親でした。これまた、妻を遠山綱景女と伝えています。のちに主水正(もんどのかみ)となり、江戸城の普請奉行となっています。
 ③太田康資(おおたやすすけ)
 第3位は、区域で5か所に知行地があった太田康資の53貫3,500文です。太田資高の次男で嫡男。仮名新六郎。母は北条氏綱の長女と推測される浄心院。妻は遠山綱景女で氏綱の養女となった法性院。本拠は江戸広沢(現在の埼玉県朝霞市)に1,200貫文。銀、今井(伊佐分)、飯倉(小早川)、三田内(寿楽寺分・品川分)、同(箕輪寺置分)の計5か所。なお、飯倉内に貫高を有した寄子の太田源七郎は康資の庶兄景資ですが、同じく飯倉内に軍役が設定された島津衆の太田新次郎もこの兄弟と思われます。
 ④狩野泰光(かのうやすみつ)
 第4位は、阿佐布に53貫200文を割り宛てられた北条家の馬廻衆で評定衆の狩野泰光です。大田大膳亮と狩野泰光は、区域には1か所のみで、集中的に貫高が設定されています。第3位の太田康資は5か所を合計してようやく50貫を越えるので、小貫高の領主が散在している様子が浮かび上がります。
 ⑤飯倉弾正忠(いいくらだんじょうのちゅう)
 江戸衆。その名字から飯倉の本領主だったと考えられます。江戸氏の系統でしょう。しかし、2貫200文しか有しておらず、飯倉内には、太田康資領ほか、他領主の所領が散在しており、それほど有力な領主ではなかったと思われます。当時の本領は千束郷(現在の台東区)の金杉分でした。
 ⑥中村平次左衛門
 江戸衆。元岩付城主の太田資正の同心でした。江戸練馬(現在の練馬区)を本領とし、三田に知行地がありました。
 ⑦大草康盛(おおくさやすもり)
 御馬廻衆。小田原城の家財奉行(台所奉行)でした。相模国東郡下矢部(現在の神奈川県相模原市)を本領とし、飯倉に知行地がありました。
 ⑧興津加賀守
 今川旧臣で駿河国庵原郡(いはらぐん)興津郷(現在の静岡県清水市)出身です。武蔵国落合(現在の新宿区)を本領とし、広尾に知行地がありました。遠山綱景の同心。妻は綱景の姉妹でした。
 ⑨本住坊
 江戸城下の下平川(現在の千代田区)に建立された江戸太田氏の菩提寺の法恩寺(現在、墨田区に移転。図4-4-3)です。寺領の「三田惣領分」は、大永4年(1524)北条氏綱より「三田地頭方」として寄進されています。
 ところで、「小田原衆所領役帳」には芝が見えません。実は、芝は世田谷城(現在の世田谷区。図4-4-4)城主の吉良氏の所領だったと考えられます。吉良氏は、世田谷城を本拠とした関東足利氏の御一家として、世田谷領を支配しました。足利一門ですから非常に家格が高く、北条氏はこれを手厚く遇しました。吉良頼康(きらよりやす)は初め頼貞と言いましたが、北条氏康の偏諱(へんき)を受けて、頼康に改名しています。氏綱女を妻としています。

図4-4-3 法恩寺(墨田区)

図4-4-4 世田谷城跡(世田谷区)