引き続き「親鸞聖人惣御門弟等交名」(図4-5-4参照)を見ると、阿佐布了海の弟子として16名の弟子が記されています。下総国で葛西(現在の葛飾区)、武蔵国で大井・品川(以上、現在の品川区)・小石川・湯島(以上、文京区)・上野(台東区)、相模国で鎌倉・山内(以上、現在の神奈川県鎌倉市)・湊(同横浜市金沢区瀬ケ崎)などが見えます。
このうち、大井には了海の出身地ともされる光福寺(真宗単立)、小石川には善仁寺(真宗東派)、葛西には光増寺(浄土宗。親鸞伝説がある)が現存し、阿佐布門徒の遺跡を伝える寺院として注目されます。このなかから、願念房誓海が出て、鎌倉長延寺(現在の神奈川県横浜市戸塚区の永勝寺)を中心に活動し、門弟の了円房明光が鎌倉材木座に高御蔵最宝寺を建立、さらに明光の門弟が空性房了源で、京都山科に佛光寺(興正寺)を建立し、仏光寺派を形成することとなります。
全国の門徒集団は、京都の親鸞の墓所を守る本願寺派とゆるやかな関係を保ちながら、自立的な活動を展開していました。仏光寺派も同様で、京都の存覚らと連絡を取りながら、信仰に励んでいたようです。
なお、「親鸞聖人惣御門弟等交名」の了海の弟子16名のうち、阿佐布に居住していたのは、了智・性智の2名に過ぎません。この後の阿佐布門徒の動きについてはわからないことが多くなりますが、京都仏光寺6世の了源も阿佐布の門人だったとする史料もあり、南関東の中心的な門徒集団として活動していたようです。
ちなみに、善福寺の現存子院の8か寺中6寺が中世に起源を持ちます。そのうち2か寺は芝方面からの転入ですが、3か寺が鎌倉時代の創建と伝えます。
金蔵寺は、嘉禄2年(1226)の開創で、開基は了海の弟子金蔵坊了源。西福寺は、弘安元年(1278)の開創で開基了教。善光寺は、文保(ぶんぽう)元年(1317)の開創で開基了遵と伝えています。
実は、芝方面にも、真宗寺院の教線が伸びています。芝金杉・橋戸の安楽寺は、宗祖越年の地ともされます。文保2年(1318)以前の開創で、開基教明とします。元麻布の専光寺は、延慶2年(1309)の開創で開基教念。当初は芝下町にあったといいます。書上には開基了智とあります。了智は了海の弟子だと言い、確かに「親鸞聖人惣御門弟等交名」にもその名前が見えます。
このように、阿佐布門徒の一部は、港区域では芝方面にも進出していたようです。