善福寺には、天正5年(1577)と推定される本願寺顕如(けんにょ)(1543~1592)からの書状があります(図4-5-5)。内容は、石山本願寺の籠城の様子を伝え、この救援を求められたもので、この時までには本願寺に合流を果たしていることがわかります。
阿佐布門徒はどのような人びとだったのでしょうか。阿佐布門徒の分布が、葛西・大井・品川・瀬ケ崎、そして芝など東京湾岸に多いことが注目できます。了海は武士に育てられましたが、その他の一般門徒はやはり、場所柄、地元の漁業などに携わる人びとだったのではないでしょうか。阿佐布は、東京湾岸に近く、近隣には伊勢神宮の荘園である飯倉御厨(いいくらのみくりや)などもありました。もともと、常陸の湖沼(こしょう)地帯で布教していた親鸞の信者には、漁民が多かったことが指摘されています。中世の麻布には、親鸞の教えを守る門徒集団が活発な活動をしていたのです。
(今野慶信)
図4-5-5 (天正5年)6月13 日「顕如書状」
善福寺所蔵