中世後期の善福寺

81 ~ 81 / 278ページ
 善福寺が所蔵する中世文書は7点を数えますが、善福寺の動向は不明で、わずかに応永16年(1409)門弟一同によって了海像を修復したことが知られるに過ぎません。応仁・文明の乱(1467~1477)では本山佛光寺が衰微(すいび)したため、15世紀末期には本願寺に合流したものと考えられています。16世紀初頭には、関東管領の山内上杉氏による一向衆弾圧の可能性も指摘されています。
 善福寺には、天正5年(1577)と推定される本願寺顕如(けんにょ)(1543~1592)からの書状があります(図4-5-5)。内容は、石山本願寺の籠城の様子を伝え、この救援を求められたもので、この時までには本願寺に合流を果たしていることがわかります。
 阿佐布門徒はどのような人びとだったのでしょうか。阿佐布門徒の分布が、葛西・大井・品川・瀬ケ崎、そして芝など東京湾岸に多いことが注目できます。了海は武士に育てられましたが、その他の一般門徒はやはり、場所柄、地元の漁業などに携わる人びとだったのではないでしょうか。阿佐布は、東京湾岸に近く、近隣には伊勢神宮の荘園である飯倉御厨(いいくらのみくりや)などもありました。もともと、常陸の湖沼(こしょう)地帯で布教していた親鸞の信者には、漁民が多かったことが指摘されています。中世の麻布には、親鸞の教えを守る門徒集団が活発な活動をしていたのです。
(今野慶信)

図4-5-5  (天正5年)6月13 日「顕如書状」
善福寺所蔵