板碑とは?
そもそも板碑は、板状で、頭頂部を山形にし、首部に二重線を横に引いた石碑のことです。現在、墓地によく見る木製の卒塔婆(そとば)の石版と言えば、わかってもらえるでしょう。画面の構成要素は、阿弥陀などの主尊(本尊)や脇侍(わきじ)を中心に配し、梵字の種子(しゅじ)で表し、造立年月日・供養対象者などを刻みます。まれに図像の場合もありますし、光明真言の梵字や「南無妙法蓮華経」の題目、「南無阿弥陀仏」の名号(みょうごう)を刻むものもあります。日本最古のものは、嘉禄3年(1227)の埼玉県熊谷市のもので、日本最新のものは、慶長3年(1598)埼玉県戸田市の妙顕寺のものとされており、まさに中世に限定されて製作された遺物なのです。
天徳寺の板碑
さて、虎ノ門の天徳寺の境内に入ってすぐ左手に、弥陀種子(みだしゅじ)板碑(区指定文化財・歴史資料、①)が立っています。高さ約68cm、幅約29cm。少し小振りなのは、下部が少し折れているからです。板碑は、別名「板石塔婆」とも言われ、板状なので非常に折れやすいものです。表面はほとんど加工されておらず、だいぶゴツゴツしています。正面上部には、蓮座の上に梵字で阿弥陀を示す「キリーク」の一文字が彫られ、中央下部に「永仁六年七月日」と陰刻されています。永仁6年は西暦1298年です。「年」は特徴的な草書体で彫られています。建立者は不明ですが、浄土信仰を持った人物で、永仁6年7月にこの板碑を建立したのです。造立の目的は不明ですが、通常は親族の追善供養と考えられています。
①天徳寺の弥陀種子板碑
亀塚稲荷の板碑
次に、三田の亀塚稲荷に行ってみましょう。うっかりすると、見逃しそうな小祠(しょうし)ですが、古代中世の古道ともされる聖坂(ひじりざか)の途中に亀塚稲荷神社があります。当社と亀塚周辺は、文明年間(1469~1487)太田道灌(どうかん)の斥候(ものみ)台だったともされます。正面の小さな石段を上がると、狭い境内に小さい5基の板碑が密集しています(区指定文化財/区登録文化財・歴史資料、②)。それぞれ、「文永三年十二月」「正和二年八月」「延文六年」という文字が読め、これ以外の2基は摩耗が激しく文字は読めません。
文永3年(1266)のものは高さ46.5cm、幅19.5cm。右側に「文永三年」、左に「十二月」と分けて刻まれ、中央に花瓶(けびょう)が一つ刻まれています。正和2年(1313)のものは高さ57.5cm、幅19.0cm。延文6年のものは5基の中で最も小さく、高さ31.8cm、幅16.8cmです。延文6年は北朝年号で、西暦1361年に当たります。主尊の下に大きく花瓶を刻んでいます。文字の読めない2基も小さいもので、いずれも台石に固定されています。
実は、これら5基の板碑は付近から出土したとも、荏原(えばら)郡上大崎(現在の品川区)から移設されたものとも言われています。このように、板碑は現在でも開発にともなう発掘調査などにより新たに出土することもあります。例えば、戦前にも、麻布善福寺の境内から14基の板碑が出土したという記録があります。板碑は、なるべく多く集め(実物がない記録だけでも)統計処理をすることにより、中世村落の所在や政治的立場、そして信仰の様相を示すことができる貴重な情報源となります。しかし、その土地の近世以降の開発状況も考慮しなければならず、その残存・発見については非常に偶然性が高いことにも注意しなければなりません。今後も注目していきたい中世の資料です。
ここでは現地で観察できる板碑を紹介しました。現地には文化財説明板も立っていますので、現物の板碑をじっくり観察することができます。
(今野慶信)
②亀塚稲荷神社の板碑(5基)
※ 本章扉頁に掲載している光明寺の弥陀種子板碑(区指定文化財・歴史資料、③)は、令和2年(2020)12月1日現在、境内工事中のため見学することができません。
港区内の施設 亀塚公園
聖坂を上り切った三田台の台地の上に所在しています。園内には古墳と考えられている「亀塚」が保存され、塚の頂上には江戸期に沼田藩の土岐家がこの由来を刻んだ「亀山碑」が立っています。隣の済海寺とともに、付近は『更級日記』の竹芝寺の伝説地とされています。亀塚稲荷神社はこの近所です。公園前の聖坂(中原街道)は、古代以来の古道で中世にも利用されていました。太田道灌が亀塚を斥候台として利用した伝承については先に紹介しました。亀塚公園には、その名にちなんだ亀の遊具や「公園附近沿革案内」板、文化財説明板なども設置されています。現在、東の斜面地に階段が整備され、園内を通って三田三丁目と四丁目を行き来することが可能になっており、三田の鎮守・御田八幡神社の境内に抜けることができます。