日比谷入江と低地の造成

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 日比谷入江は港区域の北東域に広がっていました。縄文海進最盛期のころには、海水域が内陸深くまで入り込んでいました。やがて海岸線は後退、今の田町駅の東側に出現した砂州が、古川河口に向かって発達し、江戸前島との間が狭まっていきます。中世のころにはこの間はいっそう狭くなり、かつての入江は沼沢地のようになっていたのかもしれません(図5-2-2)。

図5-2-2 東京湾北西部付近の遺跡の分布と推定汀線の変遷

角田清美「東京都心部の小地形と海岸線の変遷の変化」(『駒澤地理』52、2016年)収載図を転載、一部改変


 さて、港区域の低湿地造成は元和年間(1615~1624)のころから本格的に始められたと考えられます。埋立てに当たっては、排水のために溝を縦横に掘り抜いていたことが発掘調査によって明らかになりました(図5-2-3)。掘り起こした土砂は周囲の地面のかさ上げに用いられたのでしょう。また、作業従事者の移動のために使用した可能性も考えられます。
 低湿地の埋立て造成の手順は明らかではありませんが、似たような土砂の堆積が比較的広い範囲で観察されていることから、一定の広さを対象に、ある程度の厚みのある盛土を短期間でおこなった後に、割り当てられた土地ごとの造成をおこなったものと推測されます。ところで、愛宕下の一画(現在の虎ノ門一丁目)に屋敷を拝領した豊前小倉藩主細川忠利(ほそかわただとし)(1586~1641)が、隠居である父忠興(ただおき)(細川三斎、1563~1645)に宛てた書状に、拝領地の土が「うき土」であるとしたためられています。うき土は、すなわち浮土で、締りに欠ける土あるいは泥土を意味するとともに、泥深い土地や沼地を指すともいい、この付近が低地の水気の多い堆積土で覆われていたことが文献資料からも理解できます。この書状には、細川家の屋敷地が道を挟んだ北隣の豊後国日出藩木下家の屋敷地に比べて50cmほど高いものの、「うき土」の水分がなくなれば15~18cm位は低くなるので、敢えて上を削る必要はないとも書かれていました。いずれにしても、多くの武家屋敷が建ち並んだ愛宕下の造成は、水や泥土との闘いだったことが想像できます。

図5-2-3 愛宕下で発見された江戸時代初期の溝分布状況

内野正「中世江戸[日比谷入江]の景観―港区愛宕下遺跡の発掘調査の成果から―」(2016年)発表資料図4をもとに大成エンジニアリング株式会社が作成した図(『愛宕下武家屋敷群―近江水口藩加藤家屋敷跡遺跡―発掘調査報告書』、虎ノ門一丁目地区市街地再開発組合、2019年)を転載、一部改変