海浜部の造成

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 水との闘いは、海手の造成でも繰り広げられたことでしょう。
 播磨龍野藩脇坂家は、今の汐留地区の北端に屋敷を拝領しました。寛永9年(1632)以前のことと考えられています。脇坂家は拝領後、直ちに屋敷の西側から造営に取り掛かります。対象地内に陸側から海手に延びる水路状の施設を2筋構築し、排水をおこないながら埋め立てていきます。次に、埋立地の海手側への拡幅をおこないますが、この折に排水のために設けられたと考えられる池状の空間が検出されており、この排水用の空間が埋め立てられ、南東・北東隅および敷地の南縁が石垣に置き換えられ、脇坂家拝領屋敷の初期の造成は終了します。この間、土留めには、一部が石垣に置き換えられるまで板柵が用いられていたことが確認されています。
 この後、脇坂家では屋敷の拡張時期に入ります。最初に陸奥(むつ)仙台藩伊達家の屋敷との境に当たる南縁の石垣が延伸され、汐留川の南岸に当たる北縁でも石垣が構築されます。海側は、しがらみと呼ばれる土留め竹柵が部分的に用いられています。さらに段階を経て、屋敷外郭に土留め石垣が廻され、脇坂家の海手の屋敷造成が完了します。
 脇坂家の屋敷造成に続いて、陸奥会津藩保科家、仙台藩伊達家が屋敷造成をおこないます。保科家に関しては詳細な造成過程が観察されていませんが、伊達家の屋敷では土留め工法の細部に多少の違いはみられますが、脇坂家の屋敷と類似の手順で造成が進められました。
 汐留遺跡(播磨龍野藩脇坂家屋敷跡・陸奥仙台藩伊達家屋敷跡・陸奥会津藩保科家屋敷跡遺跡および港区No.118遺跡の総称)では、土留め竹柵・土留め板柵・土留め堤状遺構(土を筵(むしろ)で覆いながら積み上げていく工法もしくは土のうの積載)ならびに土留め石垣の4種類が確認されています(図5-2-4)。

図5-2-4 汐留遺跡で検出された土留め工法(部分)
(a)土留め竹柵、(b)土留め堤状遺構、(c)土留め板柵、(d)土留め石垣
写真提供:東京都教育委員会