江戸の拡張と玉川上水の開設

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 江戸城と市街地の建設が進められた慶長年間(1596~1615)のころ、神田明神山岸の水を北東の町へ流し、山王山元の水を西南の町へ流したという記事があります(『慶長見聞集』)。神田上水・玉川上水の敷設に先立って小規模な上水網が整備されていたのでしょう。このうち山王とあるのは赤坂の山王社、氷川明神のことで、おそらくこの流れというのが先に掲げた「武州豊島郡江戸庄図」(図5-3-1)に見られた、赤坂溜池を水源とする初期の水道網であったと考えられます。
 その後、城下町の拡充が進むにつれてより本格的な上水道の開設が進められ、まず武蔵野の井之頭池を水源とする神田上水が開かれ、江戸城および神田川から京橋川あたりまで、下町の町々や武家地に給水を始めます。しかし、江戸城と江戸市街の建設はさらに江戸城の西の四谷・麹町から赤坂・青山方面にも進み、神田上水の給水区域を大きく越えていきました。このため、新たに玉川上水の敷設が準備され、承応3年(1654)に竣工しました(図5-3-2・図5-3-3)。
 これ以降、この上水は武蔵野台地上の流域村々にも貴重な用水を供給した上で、江戸城をはじめ、四谷・麹町・赤坂などの山の手に広がり、さらに芝や京橋方面にも自然流下していき、江戸という巨大城下町に生きる人びとの生命を支えたのです。

図5-3-2 玉川上水羽村取水口付近の図 『上水記』2(部分)
東京都水道歴史館所蔵

多摩川の本流から下方の玉川上水へと水を導き入れている羽村取水口の様子。玉川上水は、ここから四谷大木戸までおよそ43kmの掘削水路で四谷大木戸に至る。

図5-3-3 玉川上水配水図(部分)
東京都公文書館所蔵 『東京市史稿』上水篇1より転載

四谷大木戸から江戸市中に入ると、地中に張り巡らされた総延長約85kmともいわれる配水管(木樋・石樋)で給水されていった。