赤坂溜池端明地(あきち)の上水施設

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 都市インフラがその設置直後から、長期にわたるメンテナンスを課題として抱えることになるのは今も江戸時代も変わりありません。ここでは、玉川上水維持管理上の重要地点であった赤坂溜池端明地あるいは赤坂溜池端柳堤と称された区域に視点を据えて、江戸における上水普請(ふしん)修復の実態を観察してみましょう。
 寛永13年(1636)から全国の大名を動員して江戸城外堀普請が実施され、赤坂溜池は外堀の一画として自然の要塞を形成することになりました。この工事と同時に、溜池上の低湿地に赤坂伝馬町(てんまちょう)および田町一~五丁目の町屋が開かれていきました。この時、大下水が敷設され雨水や湧水をバイパスとして溜池に導く機能を担いました。この大下水が通る、溜池と町屋との境界の土地が赤坂溜池端明地です。玉川上水が開かれると、ここに水道の樋や枡も設置され、大下水と並び走る形になりました(図5-3-4)。
 この区域の上水施設に施された普請修復工事は、記録資料として確認できるだけでも江戸期を通じて23回に及びます。その理由は3つありました。
 ①  ここを通る樋筋は京橋以南、築地・八丁堀方面に至る上水の幹線で、天保4年(1833)の漏水対策工事の仕様書には「江戸掛一円之元樋(えどかかりいちえんのもとひ)」と称されるほどの重要な部分だったこと
 ②  四谷の尾根筋から溜池明地までおよそ10mに及ぶ比高差を利用した強い水流を受けるため、木樋が損傷しやすかったこと
 ③  地盤が軟弱であったこと
 水道インフラを維持するうえで重要地点であり、かつ難所のひとつであったのです。
 

図5-3-4 『上水記』5(加工)
東京都水道歴史館所蔵