脇坂家は、「江戸前島」の通称をもつ半島状の砂州を基盤とするこの地に、最初に屋敷を構えた大名です。拝領は寛永9年(1632)以前のことと考えられ、そのころは海浜部の低湿地でした。次いで陸奥会津藩保科(ほしな)家が、さらに陸奥仙台藩伊達家が拝領し、汐留地区には、北から脇坂家、伊達家、保科家の屋敷が並びました。これらの屋敷跡の発掘調査で、さまざまな災害の痕跡が発見されています。
さて、脇坂家屋敷拝領時の造成は、標高0.9mほどのところから始まりました。その後、被災や増改築などのたびに盛土、整地が繰り返され、嵩(かさ)上げの厚みは1.5mを超えたとみられます。その土層断面に、さまざまな被災の跡が現れます。屋敷中央で観察された土層断面写真(図5-4-2)から、災害の痕跡を読み取ってみましょう。
図5-4-2 (汐留遺跡)脇坂家屋敷跡遺跡土層堆積状況
写真提供:東京都教育委員会
土層断面の至るところで、赤褐色の土層を見ることができます。土層の下部に黒色の土層が堆積している場合や、土層中に多量の黒色の物質が含まれている場合などがあります。これは火災によって生み出された土層で、焼土層と呼びます。調査では文献資料に登場する火災記録と、焼土層中あるいは上下から出土する遺物の年代観を照合し、いつの火災によるものかを推定しますが、明暦の大火(明暦3年[1657])や目黒行人坂(ぎょうにんざか)火事(明和9年[1772])などの大火災によって生成された可能性の高い焼土層が発見される場合もあります。脇坂家屋敷跡で検出された上部の焼土層に、大量の瓦を含む層がみられます。熱を受けた瓦を多量に含んでいることから、火災によって焼け落ちた建物の屋根瓦を焼土とともに処理した痕跡であると判断されます。
土層断面の下部で、砂が上に向かって吹き上がっている様子を観察することができます。液状化現象によって下方の砂層が吹き上がる噴砂です。遺物との関係から、元禄16年(1703)の元禄地震の際に発生した噴砂と推定されています(図5-4-2)。
元禄16年11月23日、南関東地方を大地震が襲いました。震源は房総半島南方沖、推定マグニチュード8.2の巨大地震で、江戸城の石壁や櫓(やぐら)などが損壊し、被害は大名屋敷や町屋などにも及びました。液状化現象は汐留地区のような低地のあちこちで起きたものと推測されます。
元禄16年の地震は、発生から150年を超えてもなお、江戸の人びとの記録と記憶から消えることはありませんでした(図5-4-1)。