まちを覆った火山灰

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 宝永4年(1707) 11月23日、富士山が噴火します。噴火は午前10時あるいは11時から始まり、16日間続きます。記録によれば最初の3日間が最も激しく、23日の午後には、富士山から100kmも離れている江戸のまちでも降灰がありました。新井白石(1657~1725)は『折たく柴の記』に、まず白色の灰が降り、その後一転して黒い灰が降下し堆積したと記しており、その厚みは『伊東志摩守日記』によれば二分から三分(0.6~0.9cm)でした。江戸のまちの人びとにとって、火山灰は大変な厄介者であったでしょう。
 この宝永火山灰が、近世遺跡からしばしば検出されます(図5-4-5)。その状態は、面的な広がりをもって検出される場合、土坑に掃き捨てられた状態で検出される場合、盛土層や整地層に紛れ込んでいる場合などがあり、粘土質の土でパッキングされたような状態で検出された例もみられます。

図5-4-5 増上寺子院群―源興院跡―火山灰検出状況