大名屋敷の空間構造

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 各藩の江戸屋敷の内、藩主が居住し政務を取り扱う上屋敷等は2つの空間から構成されていました。その1つは「御殿空間」と呼ばれるもので、中央の御殿や庭園などからなる部分です。ここには、江戸藩邸の政庁が置かれ、政務や応接のためのスペースが配置されています。また藩主の居住域やその夫人、あるいは奥向き女中らの生活空間もここに含まれていました。
 この「御殿(ごてん)空間」を取り囲むように「詰人(つめにん)空間」が広がっていました。こちらには、藩邸社会を成り立たせるための諸役所とその付属施設、また多数に及ぶ家中・足軽・中間(ちゅうげん)らの住居である「長屋」や「小屋」が建ち並んでいました。
 それではその具体的なあり方を、長州藩麻布屋敷によりながら見ていきましょう。
 同藩は外桜田に上屋敷、外桜田新橋内に中屋敷を拝領していましたが、大藩としては手狭であったため、下屋敷として位置付けられていた麻布屋敷に藩主が居住したり、藩主家族の殿舎の一部が置かれたりしてきました。郊外の別荘としての下屋敷というよりは上屋敷・中屋敷を補完するという役割を当初から持っていたのです。さらに明和9年(1772)の大火で上屋敷・中屋敷が類焼した後には、麻布屋敷が藩主の居屋敷として整備され、事実上の居屋敷として構成されたのです。
 図5-5-3は図5-5-1として示した設計図を描き起こした図です。表門を入り直進すると政務や応接のためのスペースである表御殿があり、図の上方に見える藩主や奥女中らの居住スペースへと続いています。長州藩では居住空間を「奥」ではなく「裏」と呼んでいたので、表御殿に対して裏御殿ということになります。表御殿・裏御殿からなる本殿の東側、図の右側には清水亭と呼ばれた広大な庭が広がり、隣接して馬場も設けられていました。これらをまとめた太線で囲った部分が御殿空間を構成していました。
 なお、この時代の麻布屋敷には、図の右下に世継ぎである毛利治親(もうりはるちか)とその夫人のための東御殿があり、図の左上には藩主重就(しげなり)の六男で当時数え7歳だった親著(ちかあきら)のための「定次郎様御部屋」が置かれ、本来の御殿空間に加えて、規模の小さなふたつの御殿空間が併設されていました。
 一方の詰人空間は江戸詰めの藩士らが居住する長屋や藩庁のさまざまな施設からなります。この図では長屋とともに「固屋」という表記が多く用いられています。江戸の大名屋敷には屋敷の外囲いを兼ねる表長屋が特徴的でしたが、この屋敷では南側表門の並びに見えています。表門を入って左手に作事や細工のための固屋や厩、風呂などの施設が配され、図の左手、西側に長屋・固屋が集中しています。
 ところで江戸藩邸にはどのくらいの藩士がいたのでしょうか。表5-5-2は、延享3年(1746)、藩主が江戸在府中における江戸詰人の構成です。
 藩主とお目見えする侍(藩士)は思いのほか少なく、足軽以下の奉公人が多くを占めていました。藩士の家臣らは、藩士が居住する長屋の2階(屋根裏)などに暮らしたと思われ、足軽や、国元および江戸で雇い入れられた中間らは藩邸西側に並んでいる中間長屋や大部屋に居住していました。長州藩の詰人空間は、下層の武家奉公人が大多数を占める詰人の構成に対応する建物の構成となっていました。

図5-5-3 江戸麻布御屋敷土地割差図(描き起こし)
提供:東京都教育委員会 宮崎勝美氏補訂

表5-5-2 長州藩江戸詰人の構成(延享3年)
『毛利十一代史(復刻版)』65(マツノ書店、1988年)をもとに作表