大名藩邸と江戸社会

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 藩の財政の7割ないし8割が江戸の藩邸で使われていたという研究があります。藩によって、時代によって変動はあるでしょうが、想像以上の経費が江戸で使われていたことは間違いないようです。このことは藩邸社会が閉ざされた空間=社会ではなく江戸社会との密接な関係性を有していたことを物語ります。
 藩邸の経済・社会関係は、先に見た藩邸の空間構造に対応して複数の局面に分けて考えることができそうです。
 第1に、藩庁の公的業務や、藩主が江戸にいる時の公儀をはじめ、ほかの諸大名・旗本・寺社などとの間で取り結ぶ家格に基づいた交流関係によるものです。
 第2は藩主や藩主の家族、奥女中らの日常生活に関わるものです。ここまでは「御殿空間」に関するものです。
 第3は膨大な数に及ぶ江戸詰人の生活を支えるとともに、藩邸自体の維持・営繕などに関わるような「詰人空間」に関する社会・経済関係です。
 このような3つの局面での必要から江戸藩邸には実に多くの業種の商工業者が出入りしていました。表5-5-3は、天保10年(1839)に長州藩が「定札」という一種の通行証を渡していた出入りの商工業者186人について、その職種ごとに分類し概観したものです(通史編近世[上]2章1節)。実に多種多様な品目を扱う商工業者が日常的に藩邸に出入りしていたことがわかります。

表5-5-3 長州藩麻布屋敷への出入商工業者


 
 この内、両替商や廻船問屋は藩の公的業務に関わるものでしょう。衣類関係では、藩主らの取り結ぶ儀礼的贈答に関するものから、家中の者の日用品まで、いろいろなレベルの商人が関わっていたものと思われます。ともあれ、藩邸社会は近隣の都市社会や周辺農村との濃密な関係を取り結ぶことで成り立っていたことは間違いありません。
 江戸という社会は、このような大名屋敷をある種の磁場として、さまざまな経済活動を活性化させていたということができるのです。
(西木浩一)

図5-5-4 谷文二「江戸麻布邸遠望図」
19世紀前半 毛利博物館所蔵

長州藩麻布屋敷に築造された庭園は清水亭と呼ばれ、名高い大名庭園の一つに数えられていた。谷文晁(ぶんちょう)(1763~1840)の子である谷文二が描いた本図からは、起伏に富んだ緑豊かな庭園の様子を窺(うかが)い知ることができる。

図5-5-5 「今井谷市兵衛町赤坂全図」『江戸切絵図』尾張屋版 慶応元年(1865)

元治元年(1864)7月、長州藩過激派は兵を率いて上京し、御所を守る会津・薩摩藩と衝突、敗退した(禁門の変)。幕府はその処罰の一環として7月26日、長州藩麻布屋敷を没収し翌月破却した。
翌年発行された切絵図では、長州藩下屋敷の表記が削除され空白になっている(図の中央下部)。