旗本森山源五郎孝盛(もりやまげんごろうたかもり)の役人人生

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 本節では、都市居住者としての旗本が江戸の社会や文化に与えた影響について検討していきます。まず最初に取り上げるのは、赤坂に居を構えていた森山孝盛(たかもり)という人物です。まずは彼の公的な側面、つまり役人としての人生をふりかえっておきましょう。
 森山孝盛は元文3年(1738)、幕臣森山盛芳の二男として江戸に生まれました。父は大番から鉄炮箪笥奉行(てっぽうたんすぶぎょう)を勤めた旗本で、宝暦7年(17 57)に69歳で亡くなっています。跡は盛芳の養子となっていた盛明が継ぎますが、明和7年(1770)に役職を辞し、翌年3月に隠居してしまいました。このため、孝盛は義兄盛明の養子となり、明和8年(1771)3月に家督を継承しました。34歳の時でした。
 森山家は上総国武射(むさ)郡木戸村・下横地村・松谷村(現在の千葉県山武市)の3か村に300石の知行地を持っており、ほかに蔵米100俵を支給されていました。小身の旗本でした。
 家督を継いだ孝盛のその後の経歴を表5-8-1にまとめました。

表5-8-1 森山孝盛の経歴


 
 彼の役人人生は、ちょうど田沼政権から松平定信による寛政改革の時代へという改革期にあたり、彼は定信政権下で出世コースに乗っていったようです。火附盗賊改(ひつけとうぞくあらため)を兼ねるようになったのが58歳の時、まさに円熟期でした。その後もいくつかの役職を勤め、文化9年(1812)6月、西丸鎗(やり)奉行を辞任して隠退します。この年75歳でした。定年制度のない時代とはいえ、健康に恵まれていたのでしょう。公務から退いて3年後の文化12年(1815)5月14日、78歳で亡くなっています。