図5-8-2 『森山孝盛日記』の表紙と本文(寛政2年11月11日の条)
国立公文書館所蔵(請求番号165-0059)
全29冊。巻1は実は実父盛芳のもので、巻2以降が孝盛の日記。この日かねて願い出ていた屋敷相対替を認められ、赤坂に1500坪の屋敷地を取得した。
天明7年(1787)8月17日、諸役人らが「芸術書上」を提出しました。老中となった松平定信の文武両道奨励策が始まったのです。ここでいう芸術とは武術から軍学、儒学までを含むものですが、孝盛は10種類の芸を書き上げて提出しました。その内容は以下のとおりです。
弓術(日置(へき)流伴道雪(ばんどうせつ)派・免許)、馬術(大坪本流・目録)、釼(けん)術(円明(えんみょう)流・目録)、鎗術(円伝疋田(ひきた)流・免許)、釼術(関口流・目録)、柔術(関口流・目録)、居合(関口流・目録)、居合(円明流・免許)、軍学(越後流・免許)、学問(朱子学)
まさに文武両道の人、数多くの分野で免許皆伝または目録皆伝まで究めていました。こうして彼は次第に定信の信任も得て出世コースに乗っていったのです。
しかしこれにとどまらず、孝盛は和歌の世界にも通じており、冷泉家の門人となっていました。京都二条城在番で上京の折には冷泉家で指導を受け、逆に師匠が江戸に下向すると宿所を訪ねています。
さて、こんな幅広い芸術に取り組んだ孝盛が、あの異才平賀源内(ひらがげんない)(図5-8-3)を訪ねたという話が安永7年(1778)8月26日の記事に見えています(図5-8-4)。
源内、元来聖堂の儒者にて、近来浪人にてさまざまオランダ物の珍しき品を拵え出し、世上に高名の儒者なり。
このように紹介した上で、源内宅で「虫目鏡」を見せてもらったことを記します。いろいろな彫り物をした台に目鏡が3段程重なっていたといいますから、虫眼鏡というよりは顕微鏡のようなものだったのでしょうか。これを覗いた孝盛はというと――。
ロウソクの灯心が太いミミズほどに見える、髪の毛の根元についたフケが柏餅みたいだ、カビの生えたところを見てみると、1本1本がキノコの形をしているぞ、等と、驚きをもって「虫目鏡」の世界の発見を書き記しています。好奇心旺盛な殿さま、さぞ大興奮だったのでしょう。
森山孝盛は、日記にとどまらずいくつかの随筆を遺しています。その代表的作品「賤(しず)のをだまき」(享和2年[1802])は、自分の少年、青年時代からの回想をふまえて、社会・風俗の移り変わりを記したものです。取り上げているテーマは、髪飾り、髪型、衣服、小間物から、豊後節などの音曲、歌舞伎役者の評判と実に幅広い内容です。そこには、統治身分として役を担う武家の顔からは窺い知れない、都市社会に生き、動き回り、交流し、観察し、そして詳細な記録を書き留めていた人物の姿が浮かび上ってくるのです。
図5-8-3 『肖像集』
国立国会図書館デジタルコレクションより転載
平賀源内は本草学者として活躍する一方で戯作者・浄瑠璃作者としても多くの作品を遺した。さらにオランダから来た摩擦起電機、エレキテルの復元や、火浣布(石綿などでつくった不燃布)の製作などでも注目を集めた。実に多様な分野で異才を発揮した人物だった。
図5-8-4 「自家年譜」安永7年8月26日の条
国立公文書館所蔵(請求番号165-0059)