この人物は実は園芸の世界、それも花菖蒲(はなしょうぶ)の改良と普及に関して他の追随を許さない第一人者でした。父定寅も花菖蒲の栽培をおこなっていましたが、その影響で取り組み始めた定朝のもとに、伊予国松山から陸奥安積沼の品種、花且美(はなかつみ)の実が届きました。この栽培をおこなったところ、代を重ねるにつれて花の色、形状にさまざまな変化が表れたといいます。まさにはまっていったのでしょうね。表5-8-2を見ると、江戸を離れて禁裏附、京都町奉行を勤めている時期がありますが、もちろんここでも官舎の庭において培養に取り組み、在任中改良された名花を天皇に献上したといいます。
これほどの熱意で取り組んだ方ですから、天保7年(1836)に64歳で職を辞してからというもの、ますます研究と実践に拍車がかかります。いつの頃からかその名も菖翁(しょうおう)と号した松平定朝は、数百種に及ぶ品種を生み出し、弘化3年(1846)にはそれらを紹介した図譜「花鏡」をまとめ、嘉永6年(1853)には『花菖培養録』を完成させています(図5-8-5)。
これまで述べてきた定朝と花菖蒲の関わりはこの本に書かれているもので、同著はこれに続いて培養の実際の説明、害虫に関する分析、肥料の製法と続きます。
そして、もちろんここでも彩色図によって自ら作り出した品種が紹介されています。
松平菖翁生涯の傑作が「宇宙(おおぞら)」と言われています。彼自身、『花菖培養録』でこの花についてコメントし、「佳色、花形無類にして、不思議の一品なり」と記しています。
数十年にわたる研究の蓄積により、花菖蒲の培養を続けてきた菖翁をして、もはや人知を超えた不思議と感じるほどの出来栄えだったのでしょう。
松平定朝は安政3年(1856)7月8日に亡くなりました。享年84。
松平定朝が生み出した品種は、「宇宙」をはじめとして現在まで十数種類が残り、「菖翁花(しょうおうか)」と呼ばれています。 (西木浩一)
表5-8-2 松平定朝の職歴
図5-8-5 『花菖培養録』嘉永6年(1853) 表紙(右)、「宇宙」その他(中央)、 虫患の記述(左)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載
国立国会図書館には嘉永元年、同2年本の写本もあり、次第にバージョンアップしていった様子が窺える。虫患や肥しの製法等は具体的な記述がなされ、培養に関するノウハウを共有しようとする意図が明白となっている。松平定朝が生み出した花菖蒲の品種は数百種類に及んだ。その内、「獅子奮迅(ししふんじん)」「霓裳羽衣(げいしょううい)」そして究極の品種「宇宙(おおぞら)」。