建築・彫刻・鍛冶大工・画工・塗師・蒔絵など各分野の第一人者が動員され、当時の技術・美術の粋を極めた霊廟が完成すると、今度は家康を祀る日光東照宮の大規模な造り替え工事がおこなわれました。
台徳院霊廟(図5-9-4・図5-9-5)と日光東照宮は、のち昭和7年(1932)に同時に国宝に指定されますから、家光政権による国家的事業としての霊廟建設が、近世建築史上最高レベルのものであったことは明らかでしょう。
この後、増上寺にはさらに文昭院霊廟(図5-9-6)と有章院霊廟が造営されますが、8代将軍徳川吉宗(1684~1751)の倹約政策により、以後は将軍霊廟の新たな建造はなされず、既存の霊廟に合祀されました。それでも、堂々とした威容を示す山門や本堂を中心に据え、その南側に台徳院霊廟を、北側に文昭院・有章院霊廟を設けた広大な寺院の有り様は、神聖にして壮大な江戸のランドマークを構成していたのです。
(西木浩一)
図5-9-3 「三縁山廣度院増上寺絵図」
東京都公文書館所蔵
大門・山門・本堂という寺院としての基本構成に加え、南北には将軍家の霊廟群が配置され、さらにその周囲をたくさんの子院と学寮が取り囲み、広大な寺域が形成されている。
図5-9-4 台徳院霊廟配置図(部分)
『東京府史蹟保存物調査報告書第11冊 芝・上野徳川家霊廟(1934年)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載
図5-9-5 台徳院霊廟拝殿正面
『東京府史蹟保存物調査報告書第11冊 芝・上野徳川家霊廟』 (1934年)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載
図5-9-6 文昭院拝殿の図
資料提供:国立国会図書館
『新編東京名所図会』7 芝公園之部・中、明治30年(1897)
江戸期には一般の観覧は許されなかった霊廟群だが、明治12年(1879)から拝観が許されるようになった。格天井や襖絵など、装飾の美に見入る人びとの姿が描かれている。