6代将軍徳川家宣(いえのぶ)の墓

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 昭和33年(1958)から昭和35年(1960)にかけて、昭和20年(1945)5月の大空襲によって失われた増上寺徳川将軍墓の調査が実施されました。日光東照宮に匹敵する霊廟群の威容については本章9節にも述べたところですが、ここでは6代将軍徳川家宣(1662~1712)の墓をとりあげ、遺体を収納する地下埋葬施設と、地上に作られた宝塔について見ていきましょう(図5-10-2・図5-10-3)。
 

図5-10-2 6代将軍家宣の墓(宝塔) (慶応3~4年[1867~1868]撮影)

図5-10-3 6代将軍家宣の墓(宝塔・石室)の断面図
鈴木尚ほか編『増上寺 徳川将軍墓とその遺品・遺体』(東京大学出版会、1967年)より転載


 まず遺体を直接納めるのは木製の棺で、高さ121cm、縦・横各105cmでした。現在の棺は遺体を寝た状態で納めますが、江戸期の埋葬の多くは座った状態で収納するため縦横よりも高さが大きくなるのです。家宣も胡坐(あぐら)をかいた状態で埋納されていました。木棺内部は石灰で充填され、その総量は370kgにも及んでいました。
 この木棺が151cm四方の銅棺に納められます。まず銅棺の底に板石を据え、15cmの厚さに木炭を置き、その上に金襴と打敷(うちしき)を敷いて木棺を入れ、四方の空間にも全部木炭が詰めてありました。
 二重の棺はさらに二重の石室に納められます。まず内側の石郭は260cm四方、その外側にある石室全体の石組は縦・横3mの立方体となっており、石室と石郭の隙間にも木炭がぎっしり詰められていました。石室の上部と下底の一部は固い漆喰の層で固められていました。
 以上に見た堅牢な地下埋葬構造の地上部分は、漆喰層の上に据えられた台石の上に6段からなる石組の基檀が設けられ、さらにその上に銅製の宝塔が置かれていました。基壇から宝塔上部までの高さは4.86mといいますから、それは巨大な墓といえます。