越後長岡藩6代藩主牧野忠敬(まきのただたか)の墓

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 参勤交代という制度の下、江戸には全国の大名家の藩邸が建ち並び、その中には定府(じょうふ)といわれ江戸定住となる大名家もあったり、隠居した藩主がそのまま江戸に留まる場合もあったりして、江戸で没する大名の数は少なくありませんでした。その結果、国元と江戸それぞれに菩提寺を持つ家が増え、江戸の寺院にも大名墓が設けられていきました(表5-10-1)。
 こうした大名墓は現在も墓として祭祀の対象となっているため、地下の埋葬遺構を調査することは通常はできません。しかし、昭和57年(1982)年に実施された済海寺に所在する越後長岡藩牧野家の墓は、改葬に際してご当主の理解を得て緊急発掘調査が実施され、江戸の大名墓に関する貴重な学術的データを提供しています。
 ここでは延享5年(1748)に死去し埋葬された6代藩主牧野忠敬の墓を紹介します(図5-10-4・図5-10-5)。
 まず地下埋葬施設から見てみましょう。遺体は木製の座棺に納められ(内棺)、さらに木製の箱(外棺)に入れられていました。そしてこの外棺が石室に納められていました。内棺と外棺の間には漆喰が、石室と外棺の隙間には木炭がそれぞれ充填されていました。これもまた堅牢な埋葬施設といえます。地上の墓石は2段の基檀の上に宝篋(ほうきょう)印塔といわれる様式のものが設置されており、その全体の高さは3.53mに達していました。

表5-10-1 文化5年(1808)段階における港区内に所在した主な大名菩提寺

岩淵令治『江戸武家地の研究』(塙書房、2004年)をもとに作成された図表(『江戸の大名菩提寺』港区立港郷土資料館、2012年)を転載、一部加筆

図5-10-4 牧野忠敬墓 宝篋印塔実測図
『港区三田済海寺長岡藩主牧野家墓所発掘調査報告書』(港区教育委員会、1986年)より転載

図5-10-5 牧野忠敬墓 石室断面模式図
『港区三田済海寺長岡藩主牧野家墓所発掘調査報告書』(港区教育委員会、1986年)より転載