江戸の武家の墓は、いずれも今日の一般的な墓に比較すれば、立派な墓石と堅牢な埋葬施設を有していたことが明らかになりました。
それでは、私たちが八つぁん、熊さんといって慣れ親しんでいるあの長屋住まいの庶民層の墓はどのようなものだったでしょうか。
実はこうした墓の場合、地上の墓石と地下の埋葬施設をセットで検出できた発掘事例がないのですが、これまでの研究蓄積から整理すると、およそ以下のようなものでした。
・ 棺は早桶(はやおけ)といわれる円形木棺を直接土中に埋納するのが通例でした。
・ この早桶はあまり深く土を掘ることなく地表すれすれに埋納されました。施しが十分にできない貧乏な檀家「百旦那」を揶揄した次のような川柳があります。
土くれを ちっとうごかす 百旦那
・ 墓石も小さな粗末な石塔にとどまっていました。やはり川柳にこうあります。
百旦那 荒砥ほどなを あつらえる
砥石のような墓石というわけです。
・生活の不安定さから、無縁墓となることが多かったため、池波正太郎『鬼平犯科帳』のモデルとされる長谷川平蔵は、石川島に人足寄場(にんそくよせば)を建設する際、江戸市中の不要となった無縁の石塔を集めてリサイクル利用したといいます。
なんだか、武家の墓と比べてみじめな感じすらしてきます。しかし、このような隔絶した身分格差社会も都市江戸の実相だったのです。
(西木浩一)