江戸時代、赤坂氷川明神の祭礼は丑・卯・巳・未・酉・亥年の6月15日に行われ、隔年の同日には山王祭が実施されていました。氏子町である赤坂の町々は1町ごとかいくつかの町が寄り合って番組を構成し、山車(だし)を製作し、その維持・管理、祭礼での運営に当たっていました。
本節の冒頭に掲げた祭礼番付は各番組の山車とそこに載せられている山車人形を紹介するもので、祭礼見物の手引きとして販売されていたのでしょう。祭礼前日から周辺は大変な賑わいで、当日は通行禁止となり、宮神輿、山車、さらには附祭(つけまつり)と呼ばれる歌舞音曲の出し物や仮装行列が続き、赤坂一帯は祝祭空間となったのです。
表5-11-2 赤坂氷川社の氏子町一覧
図5-11-3 赤坂氷川明神社の氏子町(加工)
「赤坂絵図」(『江戸切絵図』尾張屋版)国立国会図書館デジタルコレクションより転載
紫色の枠で囲ったのが氏子町。これらの町が単独で、あるいは数ヶ町が寄り合って山車番組を形成し、隔年6月15日の祭礼で、「猩々」「恵比寿」「源頼朝」といった人形を飾り、牛車で牽かせて行列した(滝口正哉編『赤坂氷川神社の歴史と文化』より)。