高輪二本榎の大寺院の発掘調査

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 寛文8年(1668)、冨士山上行寺が高輪二本榎(現在の高輪一丁目)に移ってきました。上行寺は、永禄10年(1567)に小田原に創建された日蓮宗寺院で、慶長元年(1596)に江戸に移り、三度の移転の後、この地に落ち着きました(図5-12-2)。その後、昭和37年(1962)に神奈川県伊勢原市に移転しました。
 発掘調査は、上行寺境内と門前町屋に相応する約5,000m2を対象におこなわれました。遺跡は南東側の台地から境内のほぼ中央の斜面地を取り込み、北西に広がる低地にかけて立地し、上行寺跡では99基の埋葬施設(墓)のほか、寺院建物跡、参道跡、ごみ穴、地下室などの遺構が検出され、境内の造成や墓地造営の様子、建物の位置や変遷等が確認されています。台地斜面から低地部にかけての大規模な埋め立て造成は17世紀前半には始められ、18世紀後半にはおおむね終了したものとみられます。4m近い盛土がなされていた箇所もありました。その後も、斜面地の整備や嵩上(かさあ)げ、被災後の復旧などに伴う造成が幕末にかけてたびたび行われました。境内の様子をみていきましょう(図5-12-1・図5-12-3)。

図5-12-2 『江戸名所図会』にみる上行寺周辺
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

図5-12-3 上行寺跡・上行寺門前町屋跡遺跡 遺構全体図

港区教育委員会・株式会社盤古堂『上行寺跡・上行寺門前町屋跡遺跡発掘調査報告書』(長谷工コーポレーション、2006年)より転載、加筆


 上行寺の墓地は、調査地北東部、同北西低地部の2か所で発見されました。17世紀末頃に北西低地部で造営が始まり、19世紀前半に入り北東部墓地がつくられるようになったと考えられていますが、ともに昭和37年(1962)の移転時まで使用されていました。なお、調査地南西部で17世紀前半に営まれたとみられる墓地が検出されており、上行寺建立前に寺院が存在していた可能性が示唆されています。
 文久3年(1863)の「諸宗作事図帳(しょしゅうさくじずちょう)」(図5-12-4)によれば、表門は二本榎通りに面して設けられていました。境内のやや北寄りの位置で、二本榎通りに向かって東西方向に延びる参道の痕跡が検出されています。庫裡(くり)や客殿などの主要な建物群は、参道の奥、台地の縁から斜面造成地にかけて整備されました。それぞれの建物の規模や形状は時期によって異なりますが、建物群の位置が昭和37年の移転時まで大きく変わることはありませんでした。建物群の西側に、遺構が希薄な空間があります。斜面地の中ほどから下位に当たり、『江戸名所図会』に山林と崖が描かれている場所です。ここには建物や墓地はつくられず、巨大なごみ穴が掘られていました。
 上行寺がこの地に移転して間もないころ、のちに建物群が整備されるあたりに、「上行寺」と線刻された壁をもつ階段付きの地下室がつくられました(図5-12-5)。検出面には、元和10年(1624)を最古とし、寛文12年(1672)を最新の年号とする墓石が6個、階段と同じ方向に、表面を下にして並べられていました。ほかに延宝5年(1677)銘の墓石が覆土中から出土しています。また調査区の東端付近では、「榎塚」跡と考えられる円形の溝状遺構が検出されています。

図5-12-4 『諸宗作事図帳』に描かれた上行寺境内(加工)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

図5-12-5 「上行寺」の線刻(上)のある地下室(下・459号遺構)