幕府が名主を活用するにあたり、事前に個々の町名主を調査して勤務評定をおこなっています。寛政2年(1790)9月、町奉行から老中松平定信に提出された「名主共人柄之義申上候書付(なぬしどもひとがらのぎもうしあげそうろうかきつけ)」という報告書は、人柄・勤柄が良好と判断された町名主のみを抽出したものです(図5-13-3)。
表5-13-2は名主番組ごとの名主の総数と、この調査で優良と認定され書き上げられた名主の人数をまとめたものです。このうち、現在の港区域の町を支配した優良名主について一覧して表5-13-3を作成しました。
町奉行所の同心を2組に分けて評定者1・2とし、町年寄奈良屋市右衛門、樽与左衛門と合わせて4名で評価しています。21番組の名主総数が不明なので同組を除いてみると、総名主数247名に対して評定が高く書き上げられた優良名主は48名で、わずか19%に留まっています。
現在の港区域に居住していた優良名主を抽出した表5-13-3を見てみると、「中・中・中」とか「上・中・下」と評価が分かれていてもここに入っています。逆に言うと、ここに書き上げられていない81%の人物には「下」の評価が多く下されていたということになりそうです。
さて、それではその上・中・下の評定ポイントはどこに置かれていたのでしょうか。
まずは「実体(じってい)」であるか否か、つまりまじめで正直、実直であるかどうか。
次に「出精」「相励」、やる気を持って取り組んでいるかどうか。そして3番目に「御用向相弁」、仕事の内容をわきまえているかが問われます。つまり人格・意欲・勤務への習熟度がポイントになっているのです。逆にマイナス評価となるキーワードは、「不身持」、つまり品行がよろしくないこととか、「不勤成」、要は働く意欲に欠けるといった内容になります。
こうした厳しい基準の中で、4名全員の評価「上」を集めた芝田町の治左衛門や芝西応寺町の惣治郎は、さしずめスーパー町名主といったところでしょうか。
何はともあれ、町方支配の末端で業務に当たる町名主や、家持が務める月行事らの存在が、わずかな人数の町奉行所役人による江戸市中の統治を支えていたのです。
(西木浩一)
図5-13-3 『類集撰要』巻49、旧幕引継書
国立国会図書館デジタルコレクションより転載
町名主の勤務評定。優秀な名主のみが書き上げられている。この優秀な者の抽出をふまえて、名主支配地域の調整や褒賞、肝煎名主への任命などがおこなわれていった。
表5-13-2 寛政期の名主勤務評定
表5-13-3 現在の港区域の町から選出された優良名主
評定者1・2は組同心、3は町年寄奈良屋市右衛門、4は同樽与左衛門
白金台町半四郎は2つの番組で評定対象となっている。