手始めに、文政10年(1827)に各町から幕府に提出された「町方書上」により神谷町(現在の虎ノ門五丁目)のプロフィールを紹介しましょう。
徳川家康の三河国在国中から「御手廻中間(おてまわりちゅうげん)」および「御小人(おこびと)」として仕えていた集団が、天正18年 (1590)家康の関東入国に従い召し連れられました。 慶長19年(1614)、彼らは西久保(現在の虎ノ門)の地に頭・組の成員ともに大縄組屋敷を拝領します。武家地には大名や旗本が一家ごとに下賜される拝領屋敷のほかに、例えば大番組・書院番組・百人組などといった組単位で給付されるものがあり、これを大縄地または組屋敷と呼んでいました。家康に勤仕する「中間(ちゅうげん)」「小人」 としてまとまった屋敷地を拝領したのです。
2つの下級武士集団の組屋敷はどちらも元禄9年(1696)に至り、「大縄町屋敷」と認定されました。武家地ではなく町地に拝領屋敷を下賜される場合、逆に組屋敷が一円的に町屋敷化する場合をあわせて、拝領町屋敷と呼びました。17世紀の後半から、江戸市街化の進展は場末の地であった西久保にまで及んでおり、すでに実態としては町人の居住が進んでいたものが、元禄年間(1688~1704)に追認されたと考えられるでしょう。
これ以前、同地はすでに西久保田町と通称されていましたが、「田町」という町はところどころに存在するため、かれらの故郷の地である三河国八名郡神谷村の名前をとって神谷町と唱えるようになりました。