町を構成する町屋敷

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 「町方書上」は、神谷町内部の地主を3つのグループに分けて書き上げています。これを表5-14-1に示しました。
 元来の役職ごとにまとまって組屋敷を拝領したことから、そのまとまりを意識して区分されていることがわかります。それでは地主ごとの所持地面33筆は実際にどのような区分形態となっていたのでしょうか。
 このことを探る手がかりとして明治6年(1873)12月、東京府地券課が作成した「沽券地図」があります。本節の冒頭で切絵図を掲げた神谷町周辺の「沽券地図」とそのトレース図(図5-14-2・図5-14-3)、記載内容を表にした表5-14-2を示しました。
 図5-14-2・図5-14-3を見てみると、神谷町という1つの町は細長い短冊状の土地に区分されていることがわかります。1番地から35番地までに分かれていますが、33番地は2つに分かれているため、合計36の地面からなっています。このうち9番と13番はそれぞれ光明寺・専光寺という寺院、19番地は明治5年(1872)に神谷町に編入された元出石藩仙石家上屋敷ですから、この3筆を引くと33の地面となります。「町方書上」の地主数とぴったり一致しました。
 このように江戸の町は地主が所持する土地の単位である町屋敷から成り立っており、明治6年(1873)段階でもその構成区分自体は大きな変化を見ていなかったことになります。

表5-14-1「町方書上」にみる神谷町の町屋敷数(合計は原本のまま)

図5-14-2 「第二大区沽券地図(第二大区六小区)」 明治6年(1873)
東京都公文書館所蔵

切絵図(中央部分)ではのっぺらぼうだった神谷町の内部が判明。2つの寺院と合計33筆の町屋敷、明治5年に町に編入された旧大名屋敷から成り立っていた。

図5-14-3 神谷町内の町屋敷トレース図

表5-14-2 明治6年「沽券図」における神谷町の土地所持状況