図5-14-4 拝領町屋敷の内部構造『町会所一件書留』(部分・加工)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載
ところで、33筆あった神谷町の町屋敷の内たった1つの町屋敷について、天保15年(1844)、弘化3年(1846)、嘉永2年(1849)の人別帳の下書が残されていました。「大竹左馬太郎地面住人人別帳」(図5-14-5)がそれです。この3年分の 人別帳を合綴(がってつ)した帳の第一葉に「東側拾弐」と書かれています。この町屋敷は神谷町の東側、北から順番に数えて 12番目の町屋敷、すなわち明治6年沽券地図に示された14番地と推測できます。その面積は168.332 坪、奥行は「町方書上」に20間と書かれていますので、間口はおよそ8間4尺程です。幅15m× 奥行36mほどの土地区画の中に何人の人が暮らしていたのでしょうか。
3年分の人数は順に63名(男 37、女26)、69名(男40、女29)、66名(男39、 女27)となっています。次に大竹拝領町屋敷に住む人びとの階層構造が表5-14-3から明らかになります。これによれば、大家さんである家主が1軒、表通りに面して店を構えていた表地借が2軒、表店借が1軒、この4軒は3年分の人別帳に変わらずに登場してきます。細い路地を通って奥に入ると、そこには各年それぞれ12軒、13 軒、16軒の裏店借、つまり裏長屋暮らしの人びとが生活していました。先に参考として掲げた牛込末寺町の拝領町屋敷同様の内部構造を想定できます。
図5-14-5 神谷町『大竹左馬太郎地面住人人別帳』(部分・加工)
東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
表5-14-3 大竹拝領町屋敷住人の階層構造
表5-14-4によって、階層と対応させた職業構成をみてみましょう。 まず家主は鉄物屋を兼業していました。次に表通りに面しては煮売酒屋、手掛屋、駕籠屋が並んでいました。手掛屋というのは不明ですが、居酒屋と駕籠屋は 比較的通行量の多い往還に面した神谷町らしい店構えといえます。次いで裏店については変動もありますが、箒(ほうき)職・飾職・ 大工職といった零細な職人、魚渡世すなわち棒手振商人、その日雇いでさまざまな職に従事する日雇稼や武家方に雇われて雑業に従事する陸尺(ろくしゃく)、その他おそらく目が不自由であったと思われる按摩(あんま)、それに勧進(かんじん)を生業とする道心者(どうしんもの)など、典型的な都市民衆層が揃っていました。
このような町屋敷1筆1筆の集積が神谷町全体の住民構成に帰結していました。当初は武家に拝領された大縄地・組屋敷としてスタートしたこの地ですが、近世後期から幕末の神谷町はすでに典型的な場末町の様相を呈していたのです。
(西木浩一)
表5-14-4 大竹拝領町屋敷住人の職業構成