本芝・金杉の由緒ある漁業

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 東海道を南下して上の切絵図の右端(図5-15-2)に見える金杉橋を渡ると、金杉通一丁目から四丁目(現在の芝一~二丁目)、次いでやや西向きに折れて本芝一丁目から四丁目(現在の芝四丁目)へと続いていきます。この町の南側、海に接する部分には「沙濱」、すなわち砂浜が広がっています。海岸沿いの金杉通、本芝両町は由緒ある漁師の町であり、やがて魚問屋ができ、そこで働く荷揚げ運搬人足や、問屋から魚を買い市中へ流通させていく仲買や棒手振(ぼてふり)商人ら、鮮魚関係の生業を担う人びとが住民の過半を占めるようになりました。

図5-15-2 「芝三田二本榎高輪辺絵図」(部分) 嘉永3年(1850)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載


 本芝一丁目の沿革書上(えんかくかきあげ)(「町方書上」)によれば、徳川家康の江戸入国以前から7人の百姓が居り、海辺のことゆえ「魚漁」をしていたが、天正18年(1590)8月1日の家康入国後、毎月4度ずつ「御膳御菜御肴(ごぜんみさいおさかな)」を献上してきたと記されています。芝金杉通一丁目の由緒にも同様に家康入国後の御前御菜御肴の献上と、将軍が芝浦に御成りする際の番船差し出しのことが書かれています。このような由緒に基づく献上の例としては、佃島(つくだじま)(現在の中央区)や小網(こあみ)町(同)の漁師による白魚上納がありましたが、芝金杉・本芝に品川(現在の品川区)・大井村御林猟師町(同)・羽田(現在の大田区)・生麦(現在の神奈川県横浜市)・神奈川(同)・新宿(同)の6か所を加えた8つの浦々は「御菜(みさい)八ケ浦」として江戸城への「御菜魚」献上を行う特別な浦として認められていたのです。
 ところで、芝金杉・本芝両浦の目の前には「江戸前」の海が広がっていました。では江戸前とはどんな範囲を指したのでしょうか。文政2年(1819)、幕府から「江戸前と唱え候場所」を尋ねられた際、江戸の魚問屋仲間は次のように回答しています。
  西の方品川洲崎一番杭より深川洲崎松之棒杭より内(中略)江戸前浦々と唱え申し候
 このおよその位置を扉頁の図に示しましたが、意外と限定された範囲であることに気づきます。芝金杉と本芝の漁師たちは、江戸前の「上品」な魚貝を主要な獲物としていました。
 「町方書上」によれば本芝一丁目の漁獲の内容は、「冬春は貝類・鱣(うなぎ)、夏秋は芝海老・鯒(こち)・鰈(かれい)・黒鯛・ざこ」となっています。これらの新鮮な魚介類は、芝一帯の料理屋で供され、その新鮮さと味わいから「芝肴」というブランド名が付けられました。

図5-15-3 芝蝦流網『東京府管内水産図説』一
東京都公文書館所蔵

図5-15-4 歌川広重『魚尽』の内 芝海老の図(部分)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

鰻や白魚、芝エビなどの産物が江戸前の海で獲れた。参考までに明治9年(1886)の「東京府統計表」による東京湾での漁獲産高の順位と漁獲量全体の金額(明治9年当時)は以下の通りとなっている。
①芝エビ(4万880円) ②アサリ(2万7,200円) ③白魚(2万1,427円) ④イワシ(1万5,567円) ⑤カキ(1万2,760円)。