江戸の魚問屋

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 江戸城での需要を満たすための「御菜八ケ浦」からの献上制度について先に紹介しましたが、日常の御用の他、端午(たんご)や八朔(はっさく)といった定例の御用、さらに将軍家の祝い事などでの臨時御用も多々あり、従来の制度では不足する状態が生じてきました。そこで17世紀前半から、幕府は不足分を買い上げる制度を導入、このため次第に魚市場が整備されていきました。18世紀段階では表5-15-1に見えるような4つの魚市場と、それぞれの市場業務を担う9つの魚問屋仲間が成立していました。
 さて、これら魚問屋の元に魚を供給する産地を問屋の側からは「浜方(はまかた)」と呼びました。浜方は「浦」と呼ばれる漁業集落によって構成され、そこには漁師と商人がいました。江戸の魚市場は浜方商人と契約関係を結び、魚介類の入荷を安定的に確保しようと努めました。その結果「御菜八ケ浦」はもとより、武蔵・相模・伊豆・安房・上総・下総等諸国の浦々で獲れた魚介類が江戸の魚市場に搬入され、幕府は魚市場を通して江戸城御用に必要な分を確保し、その余りの魚が市中に流通していったのです。

表5-15-1 江戸の魚市場と魚問屋