芝雑魚場、鮮魚のみを扱う魚市場

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 幕末になって本芝浦と金杉浦の漁師頭らが提出した書上によると、慶長6年(1601)、本芝村と金杉村に東海道が通されると両村は町となり、漁師たちは通りに市を立てて漁獲物を販売するようになったといいます(「芝浦漁業起立」)。この頃は魚問屋と定められていたわけではなかったのですが、次第に近国浦々の漁師からも仕入れて商売するようになり、問屋に定められていったといいます(「町方書上」)。つまり近隣の漁獲物を漁師自身が売りさばくような段階を原型としつつ、次第に諸国浦々から仕入れをするようになり、いつしか魚問屋が成立していったというわけです。その背景にあったのが幕府による御用魚の買上げ制度でした。享保15年(1730)、町奉行大岡忠相(おおおかただすけ)の時、表5-15-1に見える9組の内、鮮魚を扱う「七組魚問屋」が公認されています。
 さて、芝雑魚場という市場は、芝橋をはさんだ東海道筋の路上、金杉通四丁目側、本芝一丁目側で隔月に開かれていました(図5-15-6)。魚問屋仲間の記録が残るのは芝金杉町組の方だけなのですが(「金杉魚問屋記録」)、彼らが享保15年(1730)に詳細な問屋仲間の規約を取り交わした際には33軒の問屋が存在していました。その後は減少傾向をたどり、嘉永6年(1853)には18軒でした。この18軒の問屋の居所はというと、金杉通四丁目2軒、金杉裏四丁目1軒、同五丁目7軒、金杉浜町8軒でした。市場近隣に散在する魚問屋から、仲買たちは魚を買い、隔月で場所を変えるそれぞれの市場に所定の場所を構えて販売していました。さらに仲買から仕入れをする棒手振商人らが集い、海辺の町の雑魚場では活気あふれる市での商いが繰り広げられていたことでしょう。
 芝金杉・本芝は、魚市場・魚問屋と漁業集落・漁師が近接・並存するという点で、江戸でも特徴的な、「海と生きる」人びとの住まう地域でした。
 関東大震災から戦争へと向かう中で大きく衰退した東京湾内の漁業。戦後には水質汚濁による環境の悪化と、東京湾港湾整備の流れの中で、ついに昭和37年(1962)には漁業権放棄という事態に至りました。
 しかし、東京湾の水質も大きく改善された今日、海と人との豊かな関係性を取り戻す機運は高まっています。そんな今、改めて海と生きた江戸の人びとの姿を思い起こしてみることにも意味があるのではないでしょうか。
(西木浩一)

図5-15-5 「浜御殿より品川新宿迄江戸往還道絵巻」 明和3年~8年(1766~1771)
東京都江戸東京博物館所蔵

東海道沿いを海側から描いた絵図。金杉浦と本芝浦が位置するあたりは石垣による護岸が途切れて砂浜が広がっている。ここには網干場も置かれていた。

図5-15-6 芝雑魚場周辺図
『日本の歴史17 成熟する江戸』(講談社、2002年)をもとに作図