和宮入輿(じゅよ)の人足動員

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 仁孝(にんこう)天皇の皇女で、孝明天皇の妹にあたる和宮(かずのみや)は、朝廷と幕府の関係の融和を図る幕末政治の動向をうけ、14代将軍徳川家茂(1846~1866)との婚儀のために文久元年(1861)10月20日、京都を出発し江戸に向かいました。その行列の到着が間近になった12月5日、芝車町名主四郎右衛門は本丸に入る行列の牛牽御用(うしひきごよう)とその付添人足を勤める者の書上を提出しました。それをまとめたのが表5-16-1です。
 この表から芝車町の牛牽集団の様子を探っていきましょう。まず、牛牽御用を勤めた10名はいずれも芝車町および隣接する芝伊皿子町(現在の三田四丁目、高輪一・二丁目)の店借で、家族を形成し戸主として人別帳に登録されている人たちでした。彼らは伝蔵・喜右衛門・徳左衛門・徳右衛門と4名いた牛持のもとで長期間にわたって牛牽を勤めてきたベテランの専門家でした。ただし、2名は牛持・牛牽の倅(せがれ)が若くして抜擢されています。一方、物持=付添人足の方は、4名の牛持方に召使として雇われている者たちで、その中には車大工という車両整備士も含まれていました。
 「牛持旧記」という史料によれば、牛牽の収入は1日に給銀が1匁(もんめ)、ほかに飯米として1人に8合、別に昼食が支給されたといいます。日給で支給され、雨天の節など休日の補償はありませんでした。なお、和宮入輿御用には店持のベテランが出されていますが、牛牽の中にも牛持方に召使として居留する者もいたようです。
 また召使の中には、車大工のほかに牛医者もいたほか、注文先を廻る荷取(にとり)などが含まれていました。
 ところで、江戸時代の牛車は全国的に普及していたわけではなくて、京都・江戸・駿府・仙台に限られていたといいます。また、牛の生産地としては出羽庄内・陸奥会津・同南部・信濃・越後がありました。今、牛牽および物持人足として書き上げられた人びとの出身地に注目してみると、まさに牛車使用地または牛の生産地で生まれた人が大多数を占めていることがわかります。幕末の芝車町で運送業務に従事していた人びとの多くは、牛車・牛がとりもつネットワークの中で江戸に出てきて、高輪の地に定着していたのです。
 

表5-16-1 和宮入輿御用牛牽人足