牛持の由緒

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 芝車町で牛車による運搬業務に当たっていた集団の構成がおよそ明らかになってきましたが、そもそもその中心的存在であった牛持はどのような経緯でこの地に定着したのでしょうか。文化12年(1815)に同町名主四郎右衛門が提出した「芝車町牛持共起立書」によって見ていくことにしましょう。
 ① 芝車町の牛持共の先祖は、寛永13年(1636)、幕府の御普請御用のため京都より御呼び下しになり、市ヶ谷八幡前に牛小屋場を下付され、材木や石の運送に従事した。
 ② 寛永16年、御普請御用も終わったので京都へ戻ることを申し出たところ、第3代将軍徳川家光の上意として、江戸に牛車を留め置くため、居屋敷を下付する旨を伝えられた。
 ③ 現在の土地を見立てて願い上げたところ、見分の上、高輪続きにて四丁余りのところを下し置かれ、それより芝車町と唱え、以来代々家業を相続している。
 17世紀前半、江戸の初期城下町が完成しようとする時期に、重量があり鞍に積むことのできない大きさをもった荷物の搬送に利用するため、わざわざ京都から牛車の操作に手慣れた集団が招致され、引き続き江戸に定着していったことがわかります。このような由緒と、幕府御用を果たすことで、芝車町の牛持・牛牽は特別な位置を幕末に至るまで占め続け、最初に見た和宮の江戸城入りという局面でも御用を請けることになったのです。また、江戸時代初期からこの地に拠点を置いた牛持・牛牽の集団は、地域を表象する存在として、多くの錦絵等に描かれました(図5-16-2)。

図5-16-2 歌川広重「東都名所高輪の夕景」

広重は両国・隅田川に次いで高輪を名所として数多く取り上げている。その内10点に牛車が描き込まれている。